神道は、シンドウか、シントウか

「神道」は、シンドウと読むべきか、シントウと読むべきか。
結論はどちらでもよろしい。但し、そこから「濁り」と「穢れ」の違いについての理解を腹に収めておきましょう。

神道(シントウ)は濁りと穢れを忌む

 トランスペース研究所は、「神道と日本語と日本文化を学ぶ」という旗印を掲げています。
 この「神道」という言葉、一般に広く行われている読み方として、濁音を用いずに「シントウ」と読まれています。
 日垣神道においては、武道、茶道、合気道、と同様に濁音で「シンドウ」と発音しております。

 「神道」を濁らずに「シントウ」と発音するのは、日本神道が濁りや汚れを忌むからであると云われます。

諸外国においても、日本神道は、Shinto (シントー)として広く認知されています。
私も日本語では「シンドウ」と読んでいるのですが、英語では英語世界の慣例にしたがってShintoを用いることがあります。
 
 私はパソコンの日本語入力システムとして「一太郎」のATOKを使っているのですが、このATOKの初期状態では、「しんどう」とひらがな入力して変換を試みても、「神道」は現れません。

 日本語入力システムの最高峰(?)と云われるATOKが、「しんどう」を「神道」とは認めていないのです。Microsoftの日本語入力システムIMEでは、「しんどう」の数ある変換候補のなかに「神道」が含まれています。

 どうやら、一般により広く使われているのは、「シントウ」のようですね。

神道(シンドウ):濁りと穢れは別物

 一般により広く使われているのは、「シントウ」のようですが、それを以て「シンドウ」が誤りであるとは言えません。日本語は、懐が深いのです。武道、茶道、神道、という日本語の用例によっても、シンドウもまた十分に容認される日本語であるといえます。

 神道(シントウ)は、シントウでよろしいのですが、私自身は、神道(シンドウ)を良しとして用いています。それは、「濁り」と「穢(けが)れ」を立て分けているからです。

 濁りと穢れは、異なります。
 日本神道は、穢れを忌むというのは本当です。

 穢れは、祓い清めなければなりません、
 しかし、濁りというものは、尊ぶべきものなのです。

 イザナギの神のキの世界は、形がなく濁りもない世界です。気(キ)は形がなく濁りもありません。
 イザナミの神のミの世界は、形のある世界、濁りの世界です。キからみれば、人間の身(ミ)も、濁りの世界です。

 キは清らかで尊ぶべきでありますが、キだけでは形が現れません。
 ミの濁りがあって初めて形が現れるのです。濁りもまた、篤く尊ぶべきであるのです。

 濁りのない清酒は美味い。そして、濁り酒もまた美味いのです。濁りの中にこそ、人間味が深く讃えられていると申し上げるべきでしょう。

三種の神器は、ジンギかシンキか

 天皇の御位を象徴する神宝として、「三種の神器」があります。
 神道をシントウと読む人も、「三種の神器」はジンギと濁って発音することが多いようです。これも、ジンギが多数派であるとはいえ、シンキと読んで間違いとは言えません。日本語は、かなりの自由度を含む言語であるのです。

 一太郎ATOKと、Microsoft IME で、「じんぎ」と「しんき」が「神器」と変換されるかどうか試みた結果は、次のようになります。

 一太郎ATOK: 「ジンギ」 → 神器 変換される
         「シンキ」 → 変換されず
 Microsoft IME   「ジンギ」 → 神器 変換される
         「シンキ」 → 神器 変換される

 Microsoft IMEは、「神器」を「シンキ」として認めています。この点だけ見ると、Microsoft IMEの方が、一太郎ATOKよりも優れているように見えます。

 日本語ソフトの最高峰を目指すという「一太郎」ATOKには、もうすこし神道関係の用語について配慮してほしいものです。

日本語の懐の深さ

 要するに、神道をシンドウと読もうが、シントウと読もうが、どちらでもよろしいということになります。ただし、日本神道が濁りを嫌うからシントウでなければならない、と考えてしまうと、間違いになります。

 三種の神器も神祇官も、ジンギと読みます。このことからしても、穢れを嫌うからシントウでなければならないというのは筋が通りません。
それ以上に、濁りと穢れを立て分けるということが必要でしょう。

 日本語は、特定の漢字についてどう読むか、読ませたいかを、文章を書く人が自由に決められるという一面があるのです。

 但し、最近はそれが行きすぎてドキュンネームやキラキラネームなるものが横行するようになりました。「●●」と書いて「★★★」と読ませるとは、いやはや、行きすぎではありませんか。こういうドキュンネームやキラキラネームは、日本語の懐の深さを通り越して自己満足になってしまっていると、私は思います。

 若いお父さん、お母さん、気をつけて下さいますように。
【参考】濁りと穢れは異なるもの