落ち葉だって美しい(枯れ木も山のにぎわい)
紅葉の美しい時節である。街を散歩すると、街路樹の落ち葉が、紅やら黄色やら、道の両側にちりばめられて美しい。
落ち葉だって、美しいのだ。
「枯れ木も山のにぎわい」という言葉もある。
パーティに招待されたご老人が、まあ私のような老骨でもパーティに参加すれば「枯れ木も山のにぎわい」となりましょう、というような使い方をする。
逆にパーティの主催者が「枯れ木も山の賑わい」だからどうぞおいでください、などと申し上げるのは少し失礼でしょう。
確かに何も生えていない山よりも、例え枯れ木であっても木が植わっているほうが、賑わいがあってよろしい。
しかも、その枯れ木も美しいのだ。
茶道には、枯れ葉・落ち葉の美しさを伝える逸話が残っている。
千利休が弟子に命じて秋の庭を掃除させた。弟子は一所懸命落ち葉を掃き集めて、庭をすっかり綺麗にした。
それを見た利休は、「違う」と言って庭の木を揺さぶってハラハラと落ち葉を散らした。掃き浄められた緑の苔の上に、紅葉がちりばめられた。
これが日本人の美意識である。
緑の葉が、命の営みを終えて、黄色になり紅色に変色して、枝を離れる。
その命の循環が、美しく感じられるのである。
人もまたしかり。美しく老いることが出来るはずだ。
オードリー・ヘップバーンという美しい女優がいた。
美しい美しい彼女も、今は年をとって、彼女の顔には、人生のしわが刻まれている。
そのしわは、彼女の人生の反映であり、彼女の人生の勲章である。
「枯れ木も山のにぎわい」とは、老いた人間が自らをへりくだって言う言葉であるが、いやいや、「枯れ木こそ、なくてはならない山のにぎわい」とすら言えるのではなかろうか。
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