芥川龍之介全集をキンドルで走り読み

 今年に入って、サイトの記事をこまめにアップしている。最近は、一日に二記事、三記事をアップすることもある。久しぶりに文章に熱が入ってきたようだ。

 そういう際に私が心掛けることは、明治大正の文人達の作品を多数読み込むことである。今は、電子書籍「芥川龍之介大全」(Kindle版)をKindle(キンドル)で走り読みしている。これが実に良い。

 電子書籍「芥川龍之介大全」には、芥川の全作品が、発表年の順に収録されている。全てを通して読むと、芥川の成長の過程をたどることができる。文章を書く肥やしとする為の読書であるので、できる限りの速さで走り読みするのがよい。

 若い頃に芥川竜之介全集を購入して、読みふけったものだが、そのうち何かの折に古本に出してしまった。ながくそれを悔やんでいたのだが、最近の技術の進歩でキンドルなるものが出現し、私の読書環境が一変した。今更、紙の芥川全集を買い戻す気には、さらさらなれない。
kindle-zip キンドルはとにかく目にやさしい。紙書籍を読む際には眼鏡をかけている私だが、キンドルで読書する際には、眼鏡を外している。

自分の好きなサイズに文字サイズを調整出来るからである。しかも、ページをめくるという動作が、親指で画面ををぴっと押さえるだけでよいのが、まことに快い。しかも、ジップロック(中サイズ、19.6cm x 17.7cm)にぴたりと収まるので、それをもって浴槽の中で読書ができる。 

 ピッピ、ピッピと親指でページを送れるので、気持ちよく速読が出来る。

 それにしても、芥川龍之介の文才には舌を巻く。「芥川龍之介大全」(Kindle版)に収録の最初の作品は、竜之介十八才の時の作品『木曽義仲論』であり、東京府立第三中学校の学友会誌に掲載されたものである。

 その文体の華麗なることに驚嘆する。今の高校生に当たる頃に、これほど日本語と漢語の素養を身に付けていたとは、明治大正の文学者には、まことに驚愕させられる。

 還暦を過ぎた吾が友人にしてこの『木曽義仲論』を味読できるのは、易友・瑞教大人ばかりであろうか。易経に親しむ人ならば、この文章も読み下せるであろう。

 文章を書く肥やしにするための読書であるので、ざあーっと速読するのがよい。じっくりと味わうのではなく、速読するのであるが、日本語表現のエッセンスが意識の底に澱(おり)のように沈殿する。

 筆を執ると、その澱(おり)が意識の表面に浮かびあがってくる。おや、こんな表現を私はどこで学んだのだろうかと、自分で不思議に思うこともある。それは、幼いころからの読書で意識の底に蓄積されていた澱(おり)から発する煌(きら)めきである。

日本語アップダウン構造と弓矢で魚を射る民族 思えば、小学校に入学する以前、当時はまだ幼稚園が珍しい存在であり、我が家には子供を幼稚園に通わせる経済的余裕もなかったので、独学で文字を習い、小学校に入学してからも活字とみれば何でも読んで、貪欲に読書したものである。

 三十過ぎて日本語の「アップダウン構造」を発見したのは、幼い頃の読書で意識の底に沈んでいた事柄が表面に現れてのことであった。幼い頃の読書で得たイメージが、日本語研究の過程で現れて、「アップダウン構造」に結実して、次の文章となった。

アップダウン構造と弓矢で魚を射る図
ある未開の部族は、弓矢を巧みに使います。舟に乗って、魚を射るのですが、問題のこの魚は厚い鱗に覆われていて、横から真っすぐに射たのでは矢が通りません。そこで彼らは、魚の位置を確かめると、弓を引き絞り矢を天に向けて放ちます。矢は上昇し、次に下降して、魚の背中に突き刺さります。

 日本語は、この部族の矢の使い方に似ています。先ずは上昇(アップ)し、次いで下降(ダウン)します。対象に向かって、一目散に突進とは参りません。
 日本語のこの構造を「アップダウン構造」と名付けます。
『日本語は神である・日本精神と日本文化のアップダウン構造』 昌原容成・著 序文)

 若い頃は、取り分け幼い頃から、良質の日本語をこれでもか、これでもか、という程にインプットしておくのがよい。子供が文章を理解するだろうか、などとかんがえる必要はない。子供は何でもかんでも吸収して、自分の血肉としてしまうものだ。

 拙著『親子で学ぶ神道読本(一)父と母と産土の神』も、そういう観点から、わざと漢字を使って「難しい」表現をしているのだが、「難しい」というのは大人の感覚であって、ルビ(読み仮名)を振っておけば子供にとって「難しい」もやさしいない。子供にとっては全てが新しいのであって、大人が思うような「難しさ」を子供が感じる訳では無い。

 毎晩、風呂の中で芥川の文章に親しむのが、今日このごろの私の楽しみである。