【神道02】人間理性成人祭(日本神道の夜明け)
人間が理性によって神の存在を認識する。そのことを以て、人間理性の成人と受け止める。それは、新生日本神道の夜明けを表す一事といえるでしょう。日本神道の弥栄(いやさか)を、言祝ぎ奉る!
1. 人間理性成人祭とは
1-1. トランスペース研究所創立祭
人間理性成人祭とは、どのような祭祀であるのか、いぶかしく思われるかも知れません。
私(昌原)がトランスペース研究所の創立祭を、大和の国一宮、大神(おおみわ)神社の神域にある元伊勢・檜原(ひばら)神社でお仕えしたのは、平成3年(1991年)10月10日のことでした。
その創立祭を「人間理性成人祭」と名付けてお仕えしたのです。
つまり、今の時代を、人間理性が一人前に成人した時代であると捉え、その時代感覚に基づいて、新時代の人間の生き方を探るためにトランスペース研究所を創立したのでした。
それは、太陽の新時代(日本神道の新生)という時代認識に基づいてのことでした。人間理性の成人こそ、日本神道の新生の流れから生まれた一事であると考えたのです。
日本神道の新生 ====> 人間理性の成人
では、人間理性の成人とは何か。
1-2. 理性の成人とは、理性による神の認識
理性というものは、今の世間一般の常識では、宗教的なるものや神の存在などとは正反対の対極にあるものと捉えられています。
ところが、真実の人間理性とは神の恵みであるということに気づいたのです。
理性と神とを対立させる考え方は、まったく真相にほど遠い誤解であり、理性と神とは質を同じくするものであり、神あるが故に、理性があるということに気づかされたのであります。
AがBを認識するということが可能であるためには、Aの中にBと同質のものが含まれていなければなりません。 Aの中にB要素が全く含まれていないならば、Aは未来永劫、Bを認識することはかないません。
認識とは、詰まる所、同じものが、同じものを、同じであると認めることに他なりません。
理性が神の賜物であるが故に、理性によって神を認識できるのです。
今、ようやく、人間理性が、神の存在を認識できるようになりました。
理性によって神の存在を認識する、その一事を以て、人間理性の成人と受け止める。
その理性の成長をお祝いして差し上げたいということから、人間理性成人祭を思い付いたのであります。
私がこのように人間理性の成人を意識するまでには、長い道のりがございました。
2,日本語アップダウン構造の発見
2-1. 日本語の翻訳に苦しむ
私は、大学入学の年に、当時最年少で科学技術翻訳士の資格を取り、在学中から翻訳のアルバイトを始めました。卒業後は、そのまま技術翻訳の世界に入り、一時期別の仕事に就いたこともあるのですが、今に至るまで和文を英文に翻訳する仕事を続けております。
人間理性成人祭に至る十年の間は、とりわけ仕事と格闘する毎日でした。
英語と格闘していたのではありません、日本語と格闘していたのです。
私が翻訳していたのは、日本を代表する超一流企業の技術者たちの書いた日本語なのですが、それはもう・・・ひどい!(絶句)。
その格闘の中から、日本語アップダウン構造と英語ショートカット構造の違いを発見したのです。
2-2. アップダウン構造は神の存在証明
アップダウン構造とショートカット構造を使うと、いくつかの翻訳テクニックを統一的に説明出来ることにも気が付きました。そこで当初は『翻訳技法統一原理』とでも銘打って一書をなそうかと考えたこともありました。
ところが、アップダウン構造の深みは、翻訳技法の程度でとどまるものではありませんでした。
卒業後、翻訳と併行して、ある女師匠について神祭りの道へ足を踏み入れたのですが、その神祭りと日本語研究とが、私の中で渾然と溶け合って、そこからなんと、アップダウン構造によって神の存在証明が成されたのです。
日本語自体が、神の存在を大前提として構成されていることに気づいたのです。
神の存在を根本におかない限り、真正の日本文法は絶対に構築不可能であると気づいたのです。
つまり、日本語の世界においては無神論は成り立たないということです。
そのことに気づいたのは、理性というものによって神の存在を認識できたということに外なりません。
これは驚天動地の出来事でありました。
この点に関して、以下に拙著『日本語は神である』から引用します。
神の存在を認めることが理性とは無関係であったのは、遙かなる過去の物語りとしてしまわねばなりません。
「理性によって神の存在を認識する」
それが世界人類の常識となって初めて、人間も一人前になったと、大宇宙から認めていただけることでしょう。
無限成長を続けてゆく理性ではありますが、現在ただ今の節目には、格別の重みがあります。
即ち、地球人類の理性が「成人式」を迎えようとしているのです。
(日本語は神である・日本精神と日本文化のアップダウン構造 昌原容成・著 P. 205)
3.太陽の新時代の人間の生き方
3-1. トランスペース研究所の創立を志す
『日本語は神である』の草稿を書きつづっていた頃から、トランスペース研究所創立のことが、私の意識に上るようになりました。
人間が理性によって神の存在を認識できるようになったのは、人間の進化のプロセスがそこまで進んだからでしょう。つまり、理性による神の認識という驚天動地の発見も、今の時代の産物であると思います。
その時代を、私は「太陽の新時代」と表現しています。
アップダウン構造発見の成果に基づいて、更に深く、新生神道を学び、日本語、英語、古伝を学び、それによって、太陽の新時代の人間の生き方を考えていきたい。
そういう志をもってトランスペース研究所の創立を決意しました。
3-2. 日垣宮主師と出会う
トランスペース研究所創立のことを意識するようになった頃、私の意識の地平に、燦然と輝く太陽のように現れたお方がいらっしゃいます。
日垣宮主(ひがきみやぬし)師でありました。
昭和55年(1980年)8月、大阪サンケイホールにおける神道大講演会にて、初めて日垣宮主師にお目にかかることになりました。
二階の聴衆席から、遠く宮主様のお顔を拝見しつつ、魂が揺り動かされるような感動を覚えながら、その講演に聴き入りました。
ところが、帰宅して、講演内容を思い出そうとすると、まったく思い出せません。
心に残ったのは、ただ一つ、
このお方は 間違いもなく神様であるという感覚のみでございました。
その後、宮主師のご著書を拝読するにつれ、「太陽の新時代」という私の時代認識が、揺るぎない感覚として醸成されて行きました。
3-3. 神道と宗教の違い
宮主師と出会い、私の中に深く根を下ろして来た感覚の一つに、神道と宗教の違いということがあります。
ここで云う神道とは、神道的宗教のことではなく、神の自己展開の道としての神道です。(下段の【参考】を参照して下さい。)
宗教には教祖がいらっしゃる。
神道には教祖は存在しません。
私は、宮主師について神祭りを学んではおりますが、その関係は、教祖と信者という関係ではありません。
師匠と弟子という関係でもありません。(と、宮主師ご自身がおっしゃいます。)
神道人・日垣宮主師が神祭りをなさる。
神道人・昌原容成がその神祭りをお助け申し上げる。
その関わりの中で、昌原容成は神学びする。
こういう関係でございます。
この点をさらに深く理解していただく為に、例をあげて説明します。
私は、石上(いそのかみ)神宮の奉賛会員であります。
ところが、石上大神と私との関係は、教祖と信者という関係でもなければ、師匠と弟子という関係でもありません。
もし仮に、石上大神と私との関係が、教祖と信者あるいは師匠と弟子という関係であったとしたら、どうなるでしょうか。
その場合には、私は石上大神を教祖と仰いでおりますので他の宗教の集会には参加できません、と言いかねません。
あるいは、私は石上大神の弟子でありますの、他の神社には参拝できません、と言いかねません。
このようなことを言いかねませんね。
この感覚が、世の中の宗教信者一般の感覚なのです。
教祖がいて、信者がいて、教祖の意を受けて信者がこの世であれこれと活動する。
その信者の活動に、教祖の息吹がこもる。
つまり、教祖を崇拝する見返りとして、教祖に支配されるのです。というよりも、己自身が、己自身に束縛の網を掛けるのです。
そういうことは、世の中にたくさん例がございます。
しかし、普通の日本人であれば、石上神宮に参拝して石上大神を礼拝申し上げつつも、どこの神社であれ参拝し、どこのお寺であれ参拝いたします。そこに何の束縛もありません。
これが、本来の日本人のあり方です。
ここから、神道と宗教の違いを感覚して戴きたい。
神道人・日垣宮主師は、一柱の神としていらっしゃる。
神道人・昌原容成も、一柱の神として、それに対する。
ただ、昌原容成の一柱の神は、未だ充分に神性顕現していないが故に、日垣宮主師の一柱の神との関係において、神性顕現の神学びをする。
これが、宮主師と私との関係であります。
それは本来の日本人と、神社に祭られる神々との関係でございます。
私が日垣宮主師について日垣神道を学びながら「宗教不要」と申し上げる所以でございます。
この「宗教不要」という立場から申し上げるならば、昌原容成はいかなる団体、いかなる個人にも従属しない独立独歩の存在です。
トランスペース研究所も、いかなる団体、いかなる個人にも従属しない独立独歩の存在です。
トランスペース研究所は、昌原容成一個の責任において運営活動して行くものであると、天地神明に向かって申し上げておきます。
4,人間理性の進化は続く
4-1. 檜原神社を祭場と定める
ようやく、機が熟して、トランスペース研究所の創立祭を現実に執り行うという段になり、祭場を元伊勢・檜原(ひばら)神社と定めました。
元伊勢と言われる神座が、檜原(ひばら)以外にもいくつか存在します。それらの神座は、それぞれ異なる働きをお持ちでございます。
その中で、檜原神社は、天照大神のみ光を幽界にもたらすという格別のお働きをお持ちです。
天照大神のみ光の中に、理性の光も含まれると考え、それゆえ、檜原神社こそ、人間理性の成人を宣言するという祭事にふさわしいと考えたのであります。
事前に桧原神社を管理なさっている大神(おおみわ)神社の社務所を訪れ、祭祀の斉行をお許しいただいたのは勿論のことでございます。
こうして、人間理性成人祭の斉行の手はずが整いました。
4-2. 人間理性の成人宣言
人間理性成人祭は、理性の成人を感覚した私が、僭越ながら人類を代表して人間理性の成人を宣言し、理性の光をかざして自己確立の道を歩むということを、この現界から神界・霊界・幽界に向かって宣言するものでした。
このような祭祀を、私ごときがお仕えしてよろしいものかどうか、ずいぶん考えたものです。
衣冠束帯の昌原容成・人間理性成人祭(日本神道の新生)
平成3年10月10日、山辺の道にある檜原の里は秋天澄み渡り、神社の神域もハイキングに訪れる人で大いににぎわっていました。
祭祀参加者27名。
神庭に祭壇を築き始めると、ハイカーたちは、もの珍しそうに私たちを眺めながらも、祭事に敬意を払ってくれました。
社務所をお借りして斎服に着替え、笏を手にして神庭に立った時、全身が透明に透けていくような感覚を覚えました。
今振り返ればまことに拙い祝詞、まことに拙いマツリ手振りでありましたが、吾が魂の奥底からほとばしり出るどうしようもない志に突き動かされての仕儀でありました
。
祝詞奏上、美剣を振る。
こうして無事、人間理性成人祭を終了することができました。
4-3. 人間理性の小学校入学式
当時の勢いに乗って、人間理性の「成人」を宣言はしたのでありますが、今の時点でそれを振り返って見ますと、「成人」とは少し言い過ぎたかも知れません。
人間理性成人祭から10数年経った今ではありますが、人間界の有様を思うにつけ、人間理性の「成人」とは、少々買いかぶり過ぎたと申し上げるべきでしょう。
あれは「成人」ではなく「小学校入学式」というほどのことであったと思えるのです。
小学校に入学したおチビさんが、ちょっぴり大人びた感覚を味わったというに過ぎなかったのでしょう。
太陽の新時代に、宗教によらずして理性によって己の生き方を照らすという生き方は、まだまだこれからの人類の学びごとと言わねばなりません。
ことあるごとに宗教に頼ってしまい、ことあるごとに理性の働きを曇らせる。
せっかく小学校に入学して、ちょっぴり成長したような想いを味わったおチビさんですが、やはり幼稚園の頃の 泥んこ遊びが忘れられない。
それが今の人類の平均的なあり方と申し上げるべきでしょう。
平成3年の人間理性成人祭において、人間理性が成人したということを宣言は致しました。
しかし、16年後の今(2007年)、それを冷静に見つめ直すならば、実のところは、これから人類というおチビさんが成人に向けて努力しますという、努力目標の宣言であったと見直すべきであろうと思うのです。
「成人祭」ではなく「小学校の入学祝い」であったと申し上げるのが、分相応の表現というべきでしょう。
4-4. 理性の進化は永遠に
拙著『日本語は神である』の序文に
「天地開闢以来初めて、日本語がその真相を現しました」
と記しました。
その言葉、天地に愧(は)じるものではございません。
「日本論究極の書」とキャッチコピーに書いたこともありました。
しかし、それは、日本語アップダウン構造の奥に潜む究極の存在をちらりと垣間見たというに過ぎません。
日本語の神秘の世界、その奥行きと広がりを遙かに遠拝(とおおろが)む時、茫漠たる前途に身のすくむ想いがいたします。
人間が二十歳になって成人式を挙げたところで、人生の老先輩から見れば、まだまだヒヨッコに過ぎません。
理性が成人したということを宣言は致しましたが、実はそれ、成人へ向けての努力目標であり、人間理性は まだまだヒヨッコに過ぎません
。
さてこれから、このヒヨッコの理性を益々成長させねばなりません。
人間の理性は、どこまで、成長するのでしょうか。
人間の理性は、どこまでも、どこまでも、成長を続けます。
トランスペース研究所は、人間理性をどこまでも磨ぎすまし、新生の神道を学び、日本語、英語、古伝を学び、その成果を世の中に発信して行きたいと考えております。
吾が志に共鳴なさる人々が、燦然たる陽光を背負って現れることを切望してやみません。