モノの話(4)いきとしいける物のおもひは

いきとしいける物のおもひは(明治天皇御製)

明治天皇は、和歌に優れたお方であり、その御製集は私の愛読書のひとつであります。(天皇のお詠みになった和歌を「御製(ぎょせい)」と申し上げます。)

もの(日本語)は物質ではない・いきとしいける物のおもひは(明治天皇御製)

その御製から一首を取りだして、日本人のモノに対する心を改めて確認することにいたしましょう。

さまざまの蟲(むし)のこえにもしられけり
いきとしいける物のおもひは
(明治天皇)

「いきとしいける物」なのです、物質ではないのです。イキモノなんです。
これが、日本人のモノに対する心なのです。

角田忠信教授は『日本人の脳』において、コオロギの声に対する日本人の特異な脳反応を明らかにされました。
言語活動をするときには、左脳が優位に働くということは、洋の東西を問わず、人類共通に見られる現象です。

一方、ヒトの言葉ではない音楽や雑音などは、右脳が働くというのも世界人類共通です。

ところが、コオロギの鳴き声に対しては、西洋人や中国人韓国人までが、右脳で処理するのですが、日本人のみがそれを人間の言語なみに見なして左脳で処理するのです。

コオロギさんの泣き声を、まるで友人が語りかけているかのように左脳で受け止めるのが、日本人であります。日本人は「いきとしいける物のおもひ」を感得するのです。

虫の声を聞いて心安らぐのは、どうやら日本人に特異なことのようです。
欧米人の虫の声に対する感覚は、例えば、次の様なものです。

・壊れたれた無線のように野の蝉が騒ぎ立てる。(クリストファー・モーレー)
・シダに隠れて数匹の虫がいるだけで野原にやかましい泣き声が響き渡るが・・(エドモンド・バーク)

虫の声に対する感覚が全く日本人とはことなりますね。
虫の声に「いきとしいける物のおもひ」を感得する日本人は、ヨロヅノモノに対する感覚もまた、他民族とはひと味違ったものであるはずです。

それを考えると、西洋スピリチュアリズムに乗っかって、「ものの時代からこころの時代へ」などと浮かれていては日本人のやまと心の面目が立ちませんでしょう。

「地上を天に変えること」が日本人のやまと心

「トランス通信」読者の宝玉さんから「モノの話」について素晴らしい感想メールをいただきましたので、此処に記して共有します。
「宝玉」とは、私がこの方に差し上げた名乗りです。「日本語は神である」の中で、日本語という龍がイノチに賭けても守り通すという日本語の精髄が「宝玉」です。

感想文をお読みになれば、「宝玉」という名乗りを差し上げたくなる私の気持ちをお分かり戴けるでしょう。
宝玉大人は、一体、何をなさっているお方なのか、皆目存じ上げませんが、相当な練達の士でいらっしゃることは、文章から察することができます。

トランス通信の読者の中には、こういう練達の士女が、まことに多いのです。
では、宝玉大人の感想文をお読みくださいませ。

読者感想(宝玉さん、東京都)

昌原さんが、モノの話(3)の「やまと心と西洋的スピリチュアリズムの違い」で言及されていることに大いに共感共鳴いたします。

よくスピリチュアルな世界などでは、この世は幻想であるなどと言われます。
(たしかにそういう捉え方もできます)
しかしこれは、すべてを「物質」としか観ていないことに起因するものと思われます。

一見矛盾するようですが、ただの「物質」として観てしまうからこそ幻想となってしまうのだと。

物質にタマのちからが息づき「霊化」したものがモノであると感じます。
これは正確に言うと、「串刺し」に表現されているが如く、物質にタマが「重なる」ということ。

ふたつのものが自ずと「重ね合わされる」状態。
このことは日本の精神の大切な働きかと存じます。

日本精神は、「ものの時代からこころの時代へ」などといって、簡単に移り気はしない。
やまと心は、なにかを置き去りにして別の何処かへ向かおうとはしない。

統べて重ねあわせ、畳み込む。
ひとところへ。

宇宙のすべてを、今ここ一点に凝縮させた「モノ」 それこそが「タマ」

物質にいのちを顕現させ、「モノ」へとへんげさせること、
地上を天に変えること。

物質とモノの狭間でコトタマを授かっている ひのもとの精神。

心より感謝いたします。
宝玉(東京都)

「トランス通信」で、うわべをさらりと書き流したことも、その深層までしっかりと受け止めて下さっているのに、感銘いたしました。
「地上を天に変えること」これこそが、日本人のやまと心の働きですね。

モノの話の締めは → (5)家庭におけるモノづくり(衣食住)