枕草子の言霊解釈1-2 夏はよる、月のころは

枕草子言霊解釈(現代語訳・英訳)1段の2 夏はよる。月のころはさらなり


【枕草子原文】(1段の2)
 夏はよる。月の頃はさらなり。やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。また、ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし。雨など降るもをかし
【原文語釈】
▼月の頃: 月の眺めの良い頃。陰暦で、十五夜(満月)を中心とした前後数日。陰暦十三日の夜を十三夜(じゅうさんや)といい、十六日の夜を十六夜(いざよい)という。厳密に云えば、十六夜が、満月になることもある。
▼さらなり: 言うまでもない、もちろんだ。「言ふもさらなり」。先に述べたこと(夏は夜が一番)を承けて、「月の頃」 も勿論、言うまでもなく素敵だと言う心。
 「さら」には、『春の小川は「さらさら」行くよ』のように、ものごとの流れが滞りなく流れて行くという意味がある。真新しいものを「サラッピン」というのも、滞りなく流れて行くことから転じた語である。
 水に「さらす」のも、汚れなどが水の流れと共に滞りなく流れていくさまを云う。
▼なほ: 一般には否定されているものを改めて肯定する気持ち(旺文社古語辞典)。だから故障した物を修理するのも「なほす」と云う。
 つまり、「やみもなほ」とは、闇というものは暗くていやなものだと思うかもしれませんが、いやいや、どうして、なかなか良いものですよ、と切り返して云う心。この点をよく押さえなければならない。
 夜と月は、「さらなり」で連続的にのべられ、闇は「なほ」でその流れを切返して述べている。そのことを「なほ」の語義から受け取らねばならない。
 【モリス英訳】には、この点が表現されていない。私の【現代語訳】に「でもね、意外に思われるかも知れないけれど」を補ったのは、この点を考慮してのことである。
▼ほたる: 火(ほ)をしっぽから垂(た)らすから、「ほたる」という。
▼ほのか: かすかに、ちょっと。火(ほ)のかすかなる様と受け取れば、納得。
▼など: 「ひとつふたつなど」とわざわさ「など」をつけて婉曲にぼやかすのは、日本人の得意技である。日本人は specify (明示)しないという国民性をもっているようだ。これについては、別に述べる。
▼をかし: 趣がある。「あはれ」と「をかし」は、平安時代の文学精神を代表する二大キーワードである。
 どちらも、趣深い意を表すが、源氏物語の「あはれ」に対し、枕草子は「をかし」の文学であると云われる。
 「をかし」の方には、はなやかで明るく、滑稽にも通ずる傾向がある。
 「あはれ」と「をかし」の違いは、紫式部と清少納言の性格の差でもあろう。

【現代語訳】 夏はやっぱり夜がいいわね。お月さまが美しいころは勿論だわ。
 でもね、意外に思われるかもしれないけれど、闇夜だってなかなかいいものよ。たくさんの蛍があちこち飛び交ったりすると、とてもゴージャス。また、ほんの一つ二つが飛び交うのも、そのほのかな様がかえって趣があるわね。雨が降るのも素敵。

【モリス英訳】 In summer, the nights. Not only when the moon shines, but on dark nights too, as the fire flies flit to and fro, and even when it rains, how beautiful it is!

【英訳の和訳】 夏は夜ね。月が輝いている時だけではなく、闇夜もまた素敵。だって、蛍が前や後ろに飛び交うのですもの。雨が降る時でさえ、美しい。

【英訳語釈】
▼the nights:夜。the+複数形=総称。特定の夜ではなく、夜というもの全般の意。夏は全般的に夜がよい、月が出ていれば勿論よい、というわけ。
▼not only A, but B,おなじみの「AだけではなくBも」であるが、この【モリス英訳】には賛成できない。下記の【鑑賞】を参照。
▼fireflies: firefly (ほたる) の複数形。
▼flit:(鳥や昆虫などが)飛び回る。 flit from one thing to another あれこれやり散らして真剣に取り組まない
▼to and fro:行ったり来たり

【昌原枕草子】1段の2
 清少納言が枕草子を書いた平安時代の夏、クーラーなどは勿論ありません。蒸し暑い日本の夏に、日が落ちて夕べの風が吹き始めると、人々はほっとしたでありましょう。

 吉田兼好『徒然草』には、「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は、堪へ難き事なり」(第五十五段)とあるように、日本の夏は蒸し暑い。

 ある日本の学者がヨーロッパに留学して、ヨーロッパの夏の涼しさに驚き、「日本の学者は夏の二ヶ月をまるまる損している」といったとか。

 それほどに蒸し暑い夏であれば、しかもクーラーなど存在しなかった平安の昔に、「夏はよる」と清少納言がいうのもよく分かります。その夜は、圧倒的な闇に支配されていたことでしょう。電灯もネオンも無い一面の暗闇のなかで、月の光がどれほど有り難かったことでしょうか。

 夏の蒸し暑さにうんざりしていた所へ、夜になると一面真っ暗闇の世界となる。暗闇というのは、嫌なものだが、暑さが和らぐのはともかく有難い。「夏はよる」に限る。そこへなおさら有難いことに月の光が差してくれると、夏の夜の有り難さは、いや増す。「夏はよる。月のころはさらなり」である。

 ところが、清少納言は、「やみもなほ」趣があるという。
 暗闇は困るのだが、いや逆に、その暗闇を楽しむこともできるであろう。暗闇の中で沢山の蛍が飛び交う様などは、まことに美しい。また一つ二つの蛍が飛び交う、そのほのかな光を「をかし」と感覚する。これこそまさに日本的美意識というべきでしょう。

 日本人は、小さなもの、ほのかなもの、かすかなものに美を感じるのです。
 一方、中国人などは、大きなもの、壮大なるものに美を感じるのでありましょう。

 そもそも「美」という漢字が、羊と大との合字であることからも分かるように、中国人にとっては、羊が丸々と太って大きいことに美を感じるのです。

 また、日本人の国民性として、specify(明示)しないということがあります。
 ”Tea or coffee?” (お茶にしますか、コーヒーにしますか)と尋ねられて、うーーん、どっちでも・・・という日本人が結構いるものです。
 
最近は、随分と自分の欲しい物を、とっさに明確に表現する若者が増えましたが、西洋人に比較すると、specifyしないという日本人の心性はまだまだ生きているようです。

 数人が連れ立ってレストランへ入って注文する際にも、「同じものを」注文することがよく見受けられます。

 この specify しないという日本人の心性は、清少納言の昔から現代に至るまで、日本人の心の中に通っているようです。「ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし」とは、まさに日本的美意識の表現であります。

「ひとつ」なら「ひとつ」、「ふたつ」なら「ふたつ」というようにきっちりと specify しないのです。

 今の高校生が、「~てゆうか」とか、「~みたいな」と表現するのも、specify しないという日本人の心性の表れです。清少納言の文章は、案外、現代の跳ねっ返りの女の子たちやヤンキー少年少女たちにも通ずるものが含まれていると思います。

 清少納言の昔から今に至るまで、連綿と日本人の心に受け継がれている日本的美意識を探り出すという心持ちで、枕草子の文章に立ち向かって戴きたいものであります。
【参考】日本的美意識と中国的美意識 
 → 太太(たいたい)と細君に見る日本的美意識