筆録(31) 顔を洗って出直したくなるキツネうどん

何故、顔を洗って出直したくなるのか?

大阪難波に「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」を食べさせる所がある。
初めてそのうどんに接した時、私は本当に顔を洗って出直そうかしらと思ってしまった。「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」というのは、その時の驚きから出た私の勝手なネーミングである。

顔を洗って出直したくなるキツネうどん
「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」は、この程度のものではない。


何故「顔を洗ってでなおしたく」なったのかというと、そのうどんのどんぶりがとてつもなく大きかったのだ。大きいという表現では言い足りないほど、度肝を抜くばかりに大きかったのだ。

そこで私は旧制三高(現京都大学)の尞のエピソードを思い出した。
旧制高校の寮生たちは、蛮カラぞろいであった。朝一人が起き出てアルミの洗面器で顔を洗っていると、後から起き出してきた寮生が、早く洗えとつつく。君が早く顔を洗ってしまわないと、俺の飯が炊けないじゃないかと。

つまり、洗面器と飯炊き釜を共用しているのですね。
そして洗面器で炊いたご飯を茶碗によそうなどいう面倒はしない。洗面器に箸を突っ込んでご飯を食べていると、後から起きた寮生がまたつつく。早くご飯を食べてしまえよ、顔を洗えないじゃないかと。

件(くだん)のキツネうどんを前にして旧制三高の尞のエピソードを思い出し、このうどんに「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」と命名したのである。

命名したとたんに、このキツネうどんは、本当に「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」に変化(へんげ)した。

転職しようかどうか迷っていた友人と「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」を食べた。
彼女はみごとに顔を洗って出直して転職を果たした。
こういうことが繰り返し起こっているのだが、それは別段不思議なことではない。

命名による言霊と、人間の志

このキツネうどんは、現実に「顔を洗って出直したくなる」という不思議な力を発揮するのだが、それは不思議と言うよりは当然と言うべきか。
その不思議な力は、二つの要素によって実現される。

言霊の力と、人間の志である。

人間がキツネうどんに「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」と命名すると、その名乗りの力が働きだす。言霊の力が働くのである。
私はこれまで数回、人生の岐路に立つ友人知人を招いて「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」を食したことがある。果たして、彼ら彼女らは、まさしく言霊の働きを受けて「顔を洗って出直す」こととなったのである。

また名前の言霊に対して、人間の志が働く。



右すべきか左すべきか迷っているというが、実は大筋の結論は心の中でついていることが多い。ただ踏み切るという決断が尽きかねるということが多いのである。

・そこで「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」を食べにいくことになる。
・心の中で「顔を洗って出直したくなる」とはどういううどんであろうかとワクワクしながら出向いてくる。
・同時にそろそろ顔を洗って出直さなきゃならない時期だなと考えてしまう。

・そこで度肝を抜かれるような特大どんぶりを前にして驚く。
・その驚きがますます決心を強める。
・そしてキツネうどんをすすりながら「顔を洗って出直す」ということについて話し合う。

・こうして決断が尽きかねていた事柄に、よし、顔を洗って出直すかと心を決める。
その結果、「顔を洗って出直す」という現実が本当に現れる。

つまり、「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」は、その名の通りの働きを現すことになる。
「顔を洗って出直したくなる」という言霊の力を受けて、迷っていた本人の心の中から志が湧き上がり、本当に会を洗って出直すという現実が現れるのである。

先日(平成25年3月22日)、私が「語学道楽士」の称号を差し上げた大中洋道氏と東京の客人・愛澤孝一氏とともに「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」を食する機会があった。その際「言霊の力を強化する」ということについて大中氏の感覚を深めていただく話をしたのだが、彼がどのように「顔を洗って出直す」か楽しみである。

モノを活かす神祀り

モノはモノでしかない。
しかし、そのモノに人間が関わると、単なるモノが働きをもつモノに変化する。
私が単なるキツネうどんに「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」と命名すると、それは本当に「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」に変化するのである。
それは神祭りにも通じる事柄である。

家を建てる。完成したとは言うものの、そのままではその家は様々な材料を寄せ集めたモノでしかない。真実、人間が住む家とはなっていない。段ボールを上等にした入れ物に過ぎない。
そこで落成祭をお仕えする。

家というモノ全体を一瞬虚空に返す。
その瞬間、家船(やふね)の神がその虚空体にフワリと重なる。それをもって一軒の家という生き物が誕生することになる。そうして初めて、人間の住む家が完成したと言えるので得ある。神祀りというものは、そういうものである。

「顔を洗って出直したくなるキツネうどん」を食するということも、実は神祀りの一つであった。

【参考】▼語学道楽士・大中洋道氏の「日本語は神である」感想文
日本語は欧米の文法に収まらない神の言葉