太太(たいたい)と細君に見る日本的美意識

太太(たいたい)は夫人の美称

 若い頃、三十になったばかりだったろうか、台湾の仙道修行者を訪れたことがあった。初めて訪れた国の感想は、なにやら雑然とした街のたたずまいと、少しばかり慣れるのに時間がかかった市の匂いと共に思い出の中に沈み込んでいる。

 その消え去りそうな思い出の中で、今も鮮明に思い出す一場面がある。土地の老人が、知り合いの奥方に対して、「太太(たいたい)」と呼んだ、その場面である。

 「太太」とは、他人の奥方を尊んでお呼び申し上げる尊称である。
 初めて「太太」の文字を示されて非常に面白く思い、帰国後も長く記憶に留めていたが、やがて私の身の回りの尊敬すべき奥方にして、「太太」の尊称を奉るようになった。

 台湾、中国においては、他人の奥方はたいてい「太太」と呼ばれるようだが、私にあっては、私が「太太」の尊称に値すると考える堂々たる奥方に対してのみ、「太太」の尊称を奉るようになった。

 今、私が「太太」の尊称を奉っているのは、わずか数名のご婦人方のみである。

 「太太」に籠められた中国人の美意識は、日本的美意識とは対角をなすものであろう。

細君(さいくん)は謙遜語

 「太太」とは、詰まるところ、太い太い、ということである。太くて立派であるといわれて、今の日本女性は決して喜ばないであろう。そこに中国人の美意識が垣間見れる。

 「太太」が尊称であるのとは逆に「細君」という言葉がある。これは「妻君」に通じるようだが、自分あるいは目下の者の奥方に対して用いられる。つまり、他人の奥方は「太太」と尊称し、自分の奥方については、へりくだって「細君」と呼ぶのである。また、目下の者の奥方についても「細君」と称することが許される。

 ウチの家内は細くって「細君」と呼ぶほかないが、あなたの奥方は、太い太い「太太」だと称しているのが中国人である。これは、中国人の美意識の故である。

中国的美意識:大きな者は美しい

 美意識なるものは、民族によって随分と隔たりがある。日本人には、日本人特有の美意識があって、中国韓国の美意識とも異なり、西洋の美意識とも異なっている。清少納言の『枕草子』の原文を西洋人の英訳文と照らし合わせて鑑賞すると、それがよく分かる。

 中国人の美意識がいかなるものかと問うならば、「美」という漢字を見つめるがよい。「美」とは、羊(ひつじ)が大きいと書く。つまり、中国人にとって、羊が丸々と太って大きいことが「美」なる要件となるのである。

 この現実界で、万里の長城のような壮大な建造物を作るのも、一面においてこの美意識が、北方民族に対する防壁を作るという目的に加味されて為されたものであろう。この現実界でその実在を主張する、太くて大きいものが、中国的な「美」となるのである。

 であるが故に、他人の奥方に対しては、あなたの奥方は太くてどっしりとしていて実に立派な「太太」だと云い、自分の家内に対しては、うちのは細くてみすぼらしい「細君」でございますとへりくだって云うのである。

日本的美意識:幽(かすか)なるものは美しい

 日本的美意識と云っても一言ですべてを覆い尽くすことはできない。
 しかし、羊が大きいことを「美」と捉えるという感覚に対して申すならば、「うつくし」とは、隠れた世界からこの現象界に映(うつ)ってきた奇霊(くしび)なる存在と言えよう。そもそも「うつしよ」という言葉が、本源世界から映りきたこの世という意味である。

 太くてどっしりとしてこの世の実在を強烈に主張するという「太太」とは異なり、「うつしよ」の「うつくしきもの」は、むしろ幽(かすか)なる存在である。清少納言の『枕草子』等を読むと、幽(かすか)なる存在にうつくしさを感じる日本人の心性がよく分かる。

 大空一面に広がる大花火も美しい。同時に、暗闇でホタルがひとつふたつかすかに光る、清少納言はそれをも「をかし」というのである。

 広大な原っぱ一面に咲き誇るチューリップの群れは、確かに美しい。それは西洋風の美しさと云うべきか。色の深みという点では、野の片隅に咲く一輪の菫(すみれ)の花の色にはかなわないと私は思う。

 スミレの花の、その色の深みは、どうしたものか。チューリップは群生が美しい。スミレは一輪で幽(かすか)にうつくしいのである。

 日本的美意識をあらためて感覚してみたいとお考えであれば、このサイトの「枕草子の言霊解釈」をお読みいただきたい。日本の古典をじっくりと味わうと、日本人の伝統的心性をあらためて確認し、深く納得していただけることでしょう。
【参考】「枕草子の言霊解釈1-2 夏はよる、月のころは」

 今後は、英語「ショートカット構造」を礼賛する文章を書き綴りたいと考えております。