琴の稽古と日本人の和の心

琴を始め邦楽の合奏は、西洋オーケストラの合奏とは根本的に違う点がある。
日本人の和の心は、こういう点にも日本的あり方を現すものである。

合わせ稽古はむずかしい

【音竹祖(おたけそ)の龍琴(りゅうきん)】 (昌原愛用の琴)
【音竹祖(おたけそ)の龍琴(りゅうきん)】 (昌原愛用の琴)
今日は難波で琴の稽古をみっちりと付けていただいた。私が琴を学んでいる北村元美先生は奈良県香芝市にお住まいである。香芝市は邦楽の盛んな土地で、毎年、香芝市三曲協会の演奏会が催され、今年で28回になる。それに向けての稽古である。

北村先生はまた、大阪JR難波駅に隣接のマンションに稽古場をお持ちであるので、時にはそこで稽古をつけて戴くことがある。

一人の稽古と違って、数人での合奏となると、全員の呼吸を合わせなければならない。
一人で稽古してかなり弾けるようになったつもりで合わせ稽古に望んだのだが、多人数と合わせるとなると、初心者にはまた難しくなる。

初心者の私にとって、右手左手の両方を操っての琴の演奏は、それだけでも大脳細胞がパンクしそうになるのだが、周りの人たちの音とリズムに合わせるとなるとパソコンのようにフリーズ(凍結)してしまうことも時々ある。
合わせるということは、まことに難しい。

ところで、昨年の演奏会を終えて、北村元美先生から伺ったお話には、度肝を抜かれてしまった。北村先生の舞台での心組というものは、演奏の息を合わせるどころの話ではない。演奏者全員の気配とエネルギーと、全観客のエネルギーを吸い込んで腹中に収め、それを放出する。なんとまあ。これは武道神道の奥義に通ずるお言葉ではないか。⇒ 筆録【27】琴弾く女性の美しさと武道神道の奥義



琴の合奏とオーケストラ演奏の違い

琴に限らず、邦楽全般にいえることだが、西洋のオーケストラ演奏と基本的に異なる一点がある。
それは指揮者がいないということである。
一人の指揮者に合わせるのではないということである。

西洋音楽のオーケストラであれば、全演奏者が指揮者のタクトに合わせて演奏する。
西洋音楽でも、ジャズのジャムセッションなどは、演奏者が綿密な打ち合わせも無しで、ぶっつけ本番でお互いの呼吸を探りながら全体をあわせていく。邦楽の演奏は、ジャムセッションに通う点がある。

ジャムセッションと同様に、邦楽の場合は、どれほど多数の演奏者がいても、一人の指揮者がタクトを振って、それに全員が合わせるわけではない。

邦楽では、個々人それぞれが、お互いのリズムと呼吸をおもんばかりながら、全体の調和を図るのである。


邦楽の合奏は、日本人の和の心そのものではないか。

日本列島大地の響きに載せられて、日本人が生きている。
その日本人が使う日本語は、また、日本列島大地の響きである。

その日本語を使って、日本人が造り上げた日本文化の総体に、日本列島大地の響きが伝わっていく。
その響きの中の重大要素の一つとして、ヒトは霊止(ひと)である、霊なる存在であり、神そのものである、という一事がある。
日本語は神である-日本精神と日本文化のアップダウン構造
『日本語は神である』
ヒト(霊止)は神の子
 日本古来の言霊の教えによれば、人は、霊止(ひと)、すなわち霊(ひ)の止(と)まるところです。昔から、男を霊子(彦・ヒコ)といい、女を霊女(姫・ヒメ)と言うことは、よく知られています。

 霊は、即ち、レイ、零、ゼロであって、形がありません。形の無い世界から、形のある世界を、形作り、動かす、その根源のハタラキを為すものが、霊です。つまり、霊とは究極的には、創造主(つくりぬし)、神であります。

 無形の世界におわします神のヒカリの一流れが、有形の世界に現れて人間の肉体に止どまっているのが、真実の霊止(ひと)の姿です。

 ヒト、ヒメ、ヒコなどのやまと言葉には、「人は神の子である」という日本古来の思想が込められています。日本神道では、それを「神の分霊(わけみたま)」と表現します。
『日本語は神である – 日本精神と日本文化のアップダウン構造』(昌原容成・著)より
西洋一神教の世界では、神は絶対の創造主であり、ヒトは被造物としてひたすら神を礼拝申し上げるのだが、日本人の心はそれを一つ抜けた所にある。

琴の演奏においても、一人一人が神の分霊(わけみたま)であるので、演奏者はいわば神々の集団である。従って一人一人が己の神性を発揮して、互いに息を合わせれば、自ずと全体の調和がもたらされる。そこには、オーケストラの指揮者のような存在は必要がない。

まことに、日本語は神である。そして、日本人は神である。