果ての無い繰り返しと科学技術の進歩

 「億劫(おっくう)と科学技術の進歩」という記事を書いたが、それを補足しておきたい。

 果ての無い繰り返しほど、精神に堪えるという話である。

愚公(ぐこう)山を移す

 「愚公(ぐこう)山を移す」ということわざがある。愚公という老人が、自宅の前の山2つが邪魔であるので、それを移そうと崩して他所(よそ)へ移し始めた。

 それを観た人があざ笑うと、愚公は応じて、「山はどんなに大きくとも限りがある。吾が一族が子々孫々にいたるまで、山を移そうと努力をし続けたならば、山は必ず移せるであろう」と答えた。

 それを聞いた天帝(天の神)が、愚公の志を良しとして一夜にして山を移してしまった。

 なるほど、どれほど高く大きい山であっても、無限ではないので、その気になれば必ず移せるのは道理である。

果ての無い繰り返しが最も精神的に堪える

 愚公が山を移そうと志を立てたのは、山の大きさは無限では無いからである。
 
 自分一代で山を移すことができなくても、子々孫々にわたって作業を続ければ、必ず山は移せるというのは、道理である。果てがある作業は、必ず果てにたどり着くことができる。

 ところが、世の中には果ての無い作業というものがある。
 ある刑務所で囚人に懲罰として作業を課すのであるが、その懲罰作業の中でもっとも囚人達の精神に堪える作業があった。それは、二つのプールの水を交互に入れ替えるという単純作業であった。

 右のプールに水が満たされていて、左のプールは空である。右のプールの水をバケツで汲んで左のプールにひたすら移す。やがて右が空になり、左が満水となる。すると次に、左のプールの水を右のプールに移す。これを際限もなく繰り返すのである。
 この作業が、囚人たちには最も過酷な懲罰であったとか。

 意味の無い作業を果てしも無く繰り返すということが、人間の心には耐えられないストレスとなるのである



志があれば億劫(おくこう)の道も億劫(おっくう)にならずに立ち向かえる

 毎年ノーベル賞が発表されると、受賞者が大いに話題になる。そういう一握りの受賞者に限らず、科学技術の分野で成果を挙げる人たちは皆、高い志をお持ちであった。

 この研究実験を何としてもやり遂げようぞという志があるから、一見果てしが無い作業と見える単純な繰り返しをいとわずに、精進を続けることができるのである。

 愚公が山を移すというのは、山である限り有限であって、先が見える。

 しかし、科学技術の研究実験というのは、「愚公山を移す」という意味での先が見えないのである。先が見えないのだが、志はある。その志によって、億劫(おくこう)と見える道も、億劫(おっくう)にならずに立ち向かえるのである。

学問の歴史を塗り替えるような発見を成し遂げる研究者たちの、志を高く称賛したい。

 学び事に精進している若者たちにこそ、繰り返し、繰り返しの鍛錬にこの志の火を灯してもらいたいものである。

【参考】次の記事もお読み下さい。
 ▶ 億劫(おっくう)とSTAP細胞の小保方晴子さん
 ▶ 億、兆、京(けい)を遙かに越えて、那由多(なゆた)、不可思議、・・・。
   「数字の名前、億、兆、京、その次は?」