産土百首06 産土の神と人の生業(なりはひ)

本田親徳「産土百首/06」
 産土の 神の靈(みたま)の 無かりせば 人の産業(なりはひ) 如何にかもせむ
【読み】うぶすなの かみのみたまの なかりせば ひとのなりはひ いかにかもせむ
【大意】産土の神のお働きがなければ、人が生計をたてる仕事が、どうにもなりたたないであろう。

産土の神と人の生業(なりはひ)

 「なりわい」とは生業(せいぎょう)のこと。漁師さんであれば、漁業をなりわいとしている、などと表現します。

 産土の神は、人が生きていく上で必要な諸々の問題を根底で支えて下さっているのですが。とりわけ生計を立てる仕事、つまり生業(なりわい)もまた、産土の神の導きを得て繁盛するものであります。

 人の生業というものは、その個人と家族を養う為にだけあるのではありません。人間社会の様々な生業の一つ一つが、その役目を果たすことによって、人間社会全体が保たれるのであります。

 農業をなりわいとする人がいなければ、大根や人参を自分でつくらねばなりません。八百屋さんがいなければ、大根や人参を遠くの農家まで自分で買いに行かなければなりません。服一着、靴一足も、お金を出せば買えるという現実が、多くの人々の生業によって成り立っているのです。

 生業をヤマト言葉で「なりわい」と言いますが、これは本来「成り合ふ」という言葉から転じたものです。

 自分自身が生きていく、つまり生(な)り成(な)ることと、他人が生(な)り成(な)ることとが合わさって「成り合ふ」のです。それを称して生業(なりはひ)と申し上げているのです。

 これはちょうど、「人」という字が左右で支え合って成り立っているとよく云われるのと軌(き)を一(いつ)にしております。それ故に生業をやまと言葉では「成り合ふ」から転じた「なりわい」と表現しているのです。

 人の生業(なりはひ)がそのようなものでありますので、産土の神が生業(なりはひ)を根底で支えて下さるのは当然のことと申せましょう。

 とても有難い(つまり、滅多にありえない)のですが、また当然と云ってしまえば申し訳ないのですが、これほど当然のこともありません。産土の神は,人間の人生万般に亘(わた)るお世話をして下さるのです。

産業もなりわい(なりはひ)

 本田親徳(ちかあつ)翁はこの一首で、「なりはひ」に対して「産業」の文字を当てておられます。

 「産業」を「さんぎょう」と読むと、とても大きな概となりますが、「成り合ふ」ことの集合体が産業でありますので、「産業」を「なりはひ」と読ませることも大いに頷(うなづ)けます。

 「産業」とは「産み」出す「業」。
 
 産み出すことは、神様のなさることです。そして、神と等しい直日(なおひ)を戴いている人間もまた、この世で神の代理として「産み」出す「業」を為すことができるのです。「なりわい」を自分がメシを食っていく手段とのみ捉えないことですね。

産土の恵みと稲荷を祭る危険

 よく会社などが敷地内に商売繁盛を願って稲荷の社を建てています。それはそれで結構です。しかし、根底において、人の産業「なりはひ」が栄えて行くのは、産土の神の恵みを受けてこそであると腹に収めておく必要があります。

 また稲荷を祭るという際に、よくよく気を付けねばならないことは、その稲荷の霊が正しい神系に沿って働いているのかどうかを見極めねばならないと云うことです。
 
 京都の伏見稲荷大社などは、正しい神系にのっとって働かれる稲荷の霊群でえありますが、人間の祭り心が堕落するにつれ、稲荷の社の背後で、しばしば神慮を外れた動物霊たちが蠢(うごめ)き始めることがあります。
 
 そういう動物霊と下手な取引をしてしまうと、最初は事業繁盛して良い目を見るのですが、やがて時が至ると、動物霊から見返りを要求されます。甚だしきは、命を取られるということすらあります。それで命を落とした人を、私は実際に知っております。

 産土の神は、父と母と並び尊重される存在ですので、父母が我が子を害することが無いように、産土の神に産業(なりはひ)の繁盛をお願いすることに何の危険もありません。
 
 いやむしろ、産土さまにお願いして、自分が産土か、産土が自分か、というほどの心持ちになって己の「なりはひ」に励むことが、人としての勤めであると申せましょう。人間は産土の神とともにこの世を作り上げて行くという役目を盛っているのです。

 産土の 神の靈(みたま)の 無かりせば 人の産業(なりはひ) 如何にかもせむ
 この一首、産土の神の有り難さをかみしめていただき、さらに活用して戴きたいと願うものであります。

【参考】「春夏冬二升五合」で商売繁盛を願うのは、危険な勘違い
   →「春夏冬二升五合」は呪いの言葉