(18) 容成グルメ三題(第三話)ウサギの頬肉を呑み込んで行き先を定めた話

人生六十年を振り返って、食べ物に関して思い出に残る話が三つあります。
その三つの話に共通するキーワードが、私の名前である「容成」ということです。
「容成グルメ三題」と称して、それを物語ることにします。
  ▼(第一話) 乏しきを分かち合って親友に裏切られた話
  ▼(第二話) ウロコ付きの刺身で人生を学んだ話
  ▼(第三話) ウサギの頬肉を呑み込んで行く先を定めた話

第三話 ウサギの頬肉を呑み込んで行く先を定めた話

うさぎのほっぺ(チーズケーキ)

 「うさぎのほっぺ」というチーズケーキがあります。可愛い名前ですねえ。
 第三話でお話しするのは、こんな可愛いお菓子の話ではありません。野山を駆けめぐる、あのウサギの、正味の頬肉のことであります。ウサギの頭を正面から真っ二つに割って、その片方を皿に載せて、さあお食べと勧められたら、普通の日本人なら卒倒するかも知れませんね。
 それが、可愛らしいチーズケーキ「うさぎのほっぺ」であったら、どんなに楽だったことか。

フランス滞在一ヶ月

 私は、ちょうど30歳になった年の秋、9月から10月にかけての一ヶ月をフランスの片田舎アンジェで過ごしたことがあります。当時つきあっていたフランス人女性のアパートでやっかいになっていたのです。

 彼女は、それを遡る3年前に、当時2歳の男の子を連れて日本へやってきまして、私と知り合いました。色々ありまして、彼女は帰国し、私が彼女の故郷を尋ねたのであります。

 私と彼女とは、真剣に愛し合っていたという一面もあるのですが、若さ故の迷いというものも多分に含まれていたように思います。

 私がフランスを訪れたのは、彼女と結婚すべきかどうかに決着を付けるためでありました。場合によっては、彼女とその男の子を、日本に連れて帰るという腹づもりもありました。

 そういう私たちを、彼女の両親は、やきもきしながら見守っておられました。不幸な結婚をして別れた娘が、本当にこの東洋の青年と再婚するのかを、固唾を呑んで見守っておられたのです。

 第一話に登場する龍之介君〔仮名)は、私がフランスへ行ったまま日本には戻らないだろうと思っていたようです。
 第二話に登場する萩原先生は、ロシアでの物理学会を終えてフランスへ立ち寄られ、数日を私たちと共に過ごしました。

 そうそう、筆録【10】日本のもの作り一景:酒造りで述べたフランスのパン作りの話は、この時の経験でした。

最後の晩餐

 閑話休題(それはさておき)。

 一ヶ月は、アッという間に過ぎ去り、明日はいよいよアンジェを立ち去るという夕べ、彼女の両親は、ひょっとすると婿に成るかも知れない東洋の青年に、特別の料理を用意して最後の晩餐に招待してくれました。

うさぎのほっぺ2(チーズケーキ)

 その特別の料理が、ウサギの頬肉であったのです。私の皿の上に、ウサギの頭の左半分、つまり横顔が、ドンと載せられていました。ウサギには眼がついていました。白い歯並びも見えました。
 ああ、これが、チーズケーキ「うさぎのほっぺ」であったら、どんなに楽だったことか。

 日本人が、尾頭付きの刺身を皿に盛るのを見て、特に魚の眼を見て、西洋人は驚くといいます。東洋の青年は、皿の上のウサギの眼を見て、ビックリしたこと、ビックリしたこと。
 しかも、この東洋の青年が、それを遡る3年間にどういう生活をしていたかというと、極端を絵に描いたような玄米を中心とする菜食でした。3年間、肉はもちろん、小魚一つ口にはしなかったのです。
 3年間、こういう生活をすると、味覚がどうなるかお分かりでしょうか?
 よその家でみそ汁も戴けないようになってしまいます。みそ汁にカツオの出しを使いますでしょう。そのカツオの出しのみそ汁を一口ふくむと、べーっと吐き出してしまうのです。

 カツオの出しも吐き出してしまうという私の目の前の皿に、ウサギがぎょろりと眼をむいて私を睨んでいるのです。絶体絶命の窮地!

彼女の両親のもてなし心に胸詰まらせて

 私は、彼女の両親に、私と彼女の出した結論を報告しなければなりません。つたないフランス語で、私は話し始めました。

 「私がフランスを訪れたのは、場合によっては彼女とセドを日本へ連れて帰るためでした。(男の子は名前をセドと言いました。)
 私は彼女を愛しています。私はセドを愛しています。また、セドも私のことを愛してくれています。しかし・・・・・、彼女の心が定まらないのです。
 そういうわけで、明日、私は、一人で日本へ戻ります。一ヶ月で決着は付きませんでした。決着は付かなかったのですが、 しかし・・・・、私は、日本で、彼女の心が定まるのを待つことは出来ません。」

 「ヨーセイ、それは当然だ、それは当然だ!」
 彼女の父親が、何度もうなずきながら言ってくれました。

 「ヨーセイ、さあ、お食べなさい、お食べなさい。このウサギは頬の肉がとってもおいしいのよ!」
 彼女の母親が、私の言葉をそっくり受け容れて、そう勧めてくれました。

 私は、この二人の心に、胸が詰まる想いが致しました。
 「さあ、お食べなさい、お食べなさい」という彼女の母親の心に対して、「いいえ、3年間玄米菜食してきましたので、カツオの出しも吐き出します。せっかくですが、このウサギは、とても食べられません」などと、口が裂けても言えるものですか。

 私は、ナイフとフォークを手にとって、ウサギの頬肉を切り取りました。それを口に入れ、二口、三口噛みしめて、両親の心と共にゴクンと呑み込みました。

 「セ・ボン」

 私のこの言葉は決して、まずい料理を無理してほめるようなお世辞ではありませんでした。彼女の両親が、私たちのことを理解して戴いた上で、最上のもてなしをもって私を受けとめて戴いたことに涙ぐみそうになりながら、心からなる感謝を込めての一言でした。

 人生60年を振り返って、私が受けた最上のもてなしの一つが、この時のウサギの頬肉であったと、今も思っているのです。

ひとこと地蔵に願かけて

天橋立、成相山、成相寺、一願一言(ひとこと)地蔵

 帰国後、程なく、神道の手ほどきを受けていた女師匠のお供をして、天の橋立を一望する成相山の成相寺へ参りました。
 山腹に、一言でお願いすればどんな事でも必ず叶えて下さるという「一願一言(ひとこと)地蔵」が祀られていました。

 一願一言(ひとこと)地蔵の前に立った時、私の脳裏に一瞬、フランスの彼女のことがひらめきました。
 しかし、私は、それを振り払って、「修行」と一言を発しました。
 以後の私の人生は、まさにその一言の通りに動いて行きました。
(右の一願一言地蔵の写真は、bukkyo.netの成相山成相寺のページ から許可をいただいてここに転載する。)

 人生の折節に、このお地蔵さんの前で発した「修行」の一言を思い出す時、私は必ず、ウサギの頬肉を呑み込んで発した「セ・ボン」の一言を思い出すのであります。

「容成」修行の果てに

 容成グルメ話と題して、三つの話を致しました。
 「乏しきを分かち合い」つつ、人生の楽しさのみを見つめていた頃と、ウロコの付いた刺身を呑み込んで少しは人生について考え始めた頃と、ウサギの頬肉を呑み込んで人生の行方を定めた頃と、「容れて成る」という「容成」修行も少しずつ深められて行ったようであります。

 私はその後、日垣宮主(ひがきみやぬし)師に出会い、宮主師から霊源(霊魂の発生源)の訓えを受け、鎮魂の訓えを受けるに及び、「容成」の目標も、更に一段の進化を遂げたように思います。私自身が進化を成し遂げたという意味ではなく、目標が進化したという意味であります。

 すなわち、「無棄人、無棄物、是を襲明という」という「容成」から、さらに進んで、「己の心に容れるべきは、己の霊源の光である」という想いに達したのです。

 人は、己自身の霊源の光をこそ尊ぶべきである、
 その霊源の光を容れてこそ成るのである。
 つまり、鎮魂こそは「容成」修行である。

 それが、今の私の「容成」感覚であると申せましょう。

 その私が、60年の人生を振り返って、一言申し上げるならば、「セ・ボン」ということになるのであります。

 「容成グルメ話三題」、まことに楽しい人生でありました。セ・シ・ボン!
 さあ、これからも、大いに人生を楽しみましょうぞ。

 それにしてもタイトルは、「容成ゴックン話三題」とした方がよかったかも知れませんね。呵々(あはは)。