筆録(28) 武道神道の立ち姿(植芝盛平翁と日垣宮主師)

武道神道の奥義は姿勢に現れる

 武道神道の奥義を極めると、それは必ず姿勢に現れる。芸道もまたしかり。
 筆録【27】において、「女性の美しさの七割が姿勢にある」という持論を述べ、さらに芸道の秘訣が武道の奥義や神道の神髄に通うことを述べた。
 ⇒ 筆録【27】琴弾く女性の美しさと武道神道の奥義

 美しいのは女性ばかりではない。男性の立ち姿の美しさ、というよりは凄まじいばかりの迫力について述べてみよう。絶妙の立ち姿三題(下記)から、姿勢の大事を学びたい。

  (1)天地直立の流木
  (2)斬りかかると投げ殺されそうな後ろ姿(植芝盛平翁)
  (3)底つ磐根に宮柱太敷き立てて立つ神人(日垣宮主師)
の三題である。

(1) 天地直立の流木(みたらい渓谷の奇跡)

 昨年(平成23年)は日本列島全体が集中豪雨に見舞われた年でした。
 奈良県天川村に、みたらい渓谷という美しい渓谷があり、その年の秋に友人とともに散策に出かけました。(平成23年10月23日のこと)

 このあたりも相当の豪雨に見舞われたと見えて、渓谷に入るとあちらこちらに流木がむざんな姿をさらしていました。流される間に樹皮を岩に削り取られたのか、いずれも皆、白い肌をさらしておりました。

直立する流木・みたらい渓谷
 ところが、渓谷の中に分け入って一本の流木に出会い、感嘆の声を上げました。滝壺にその流木が直立していたのです。

 それはどこからみても、正に直立、寸分の狂いもなくまっすぐに天地を貫いて直立しているのです。

 おそらくその上流で切り出されて木材として活用される筈であったものが、豪雨に流されてこの渓谷へたどり着いたのでしょう。

 滝壺の岩の根元にはまり込んで、それがみごとに垂直に屹立しているのです。人為は全く見られません。いやあ、自然の妙術には、まことに恐れ入りました。

 これが昔々の出来事であれば、時の天皇にお届け申し上げて、天来の吉兆であるとしてこのあたりに天地を祀る神社が建てられたかも知れないね、などと友人と話し合ったことでした。 
 流木ですら、姿勢が正しければ、神として祀られたかもしれないのであります。
 だらしなく背筋を曲げる若者たちは、この流木様を礼拝申し上げ、背筋をピシリと伸ばしてもらいたいものだ。

(2)斬りかかると投げ殺されそうな後ろ姿(植芝盛平翁)

 臨済宗の禅僧・大森曹玄(そうげん)師は、剣聖と謳われた山田次朗吉先生に剣を学び、直心影流の奥義を究められた達人であります。
 曹玄師の御著書『剣と禅』や『書と禅』は、まことに味わい深く、若い頃に繰り返し読ませて戴きました。
  ⇒▼ 『剣と禅』大森曹玄・著
  ⇒▼ 『書と禅』大森曹玄・著(運が良ければ古書が・・)

 私が三十代のころ、大森曹玄師の講演会に出席したことがあります。曹玄師があちらこちらで繰り返し述べておられる逸話を、そこで直接お聞きすることができました。

武道神道の立ち姿・合気道開祖・植芝盛翁
合気道開祖・植芝盛平翁

 曹玄師がある葬儀に参列なさった時のこと、前方に黒い羽織袴を着たご老人が背中を見せて立っておられたのです。

 その後ろ姿を見て、曹玄師は背筋がゾクゾクとする寒気のような感覚を覚えたというのです。そして自分が剣を持って背後から斬りかかっていったならば間違いも無く投げ殺されるであろうという恐ろしいまでの気迫を感じたというのです。

 これは、あの音に聞く合気道開祖・植芝盛平翁に違いないと即座に了解されまして、果たして、確かめてみると、やはり植芝盛平先生であったとか。
(左は、合気道開祖・植芝盛平翁)

 臨済禅の高僧にして直心影流の奥義を究められた達人・大森曹玄師をして、背後から斬りかかっていったならば投げ殺されるに違いないと思わせた立ち姿とは、どのようなものであったのでしょうか。

 一見何の変哲も無いご老人が羽織り袴で全身の力を抜いてただスックと立っておられただけのことであろうと拝察されるのです。しかし、その姿に接して、臨済禅の高僧にして武道の達人たる大森曹玄師は、絶句するほどの衝撃を受けられたのであります。

真の武とは、相手の全貌を吸収してしまう引力の練磨である。だから私はこのまま立っていればいいのだ。(合氣道開祖 植芝盛平)

 まさにそのような状態で、植芝先生はただ立っておられたのでありましょう。

 一つの道を究められたお人の内実は、どうしようもなく形に現れるものであり、姿勢に現れるものであると云うこと、この一事から腹に収めて戴きたいものであります。

(3)底つ磐根に宮柱太敷き立てて立つ神人(日垣宮主師)

昭和平成の神人・日垣宮主師
美剣(みつるぎ)を振る日垣宮主師

 私の学生時代は、合気道一色に染め上げられておりました。
 卒業後、仙道の門を叩き、神道の修行に入りました。やがて日垣宮主師の存在を知り、日垣神道に入門いたしました。

 これは私が日垣宮主師の懐へ飛び込む切っ掛けとなったエピソードであります。

 当時私は宮主師の存在を知りつつも、あまりに恐れ多く、飛び込んでいく決心が付きかねておりました。そんなある日、神戸のある所で一枚の写真を見せられて、私は思わずオーーッと声を挙げてしまいました。一枚の写真を見て声を挙げたのは、後にも先にもそれ一度きりです。

 その写真は、白い羽織に白い袴を着け下駄を履いて立っておられる宮主様のお姿でありました。今年(平成24年)十二月に九十歳を迎えられる宮主様は、今白い髭を垂らしておられますが、その写真のお髭はまだ黒かったように記憶しています。

 その立ち姿を見てあまりの素晴らしさに、昌原青年は思わず声を挙げてしまったのです。

 全身の力みやこだわりが全く消え失せて、ただただ素っと立っていらっしゃる。その尋常ならざる素(す)の状態に私は驚愕したのです。

 日本神道の祝詞に、
  底つ磐根(いわね)に宮柱太敷き立て 高天原(たかあまはら)に千木(ちぎ)たかしりて・・・とあります。
 
 五尺有余のそのお人が、大地にズズーンと根を下ろして立つお姿は、まさに「底つ磐根(いわね)に宮柱太敷き立て」ていらっしゃる。
 白い頭巾の頭上には、そのお人から発せられる神気が天上に向けてそそり立つかと思われる。まさに「高天原(たかあまはら)に千木(ちぎ)たかしりて」お立ちになっていらっしゃる。

 天地を貫いて立っていらっしゃるのです。
 姿勢ひとつで通天の境地を現していらっしゃるのです。

 これは凄い!
 人間というものは、このような立ち方ができるものであったのか。
 立つということは、まっすぐに立つということは、こんなに神々しいことであったのか。
 まさに、姿勢通天!

 このような立ち方が出来る、このお人は神人だと私は思いました。
 立ち姿の写真一枚で、これほど青年を感動させるこのお人は、間違いの無いお人だと確信いたしました。(その写真が今手元にないのは甚だ残念です。)

至誠通天とは姿勢通天

武道神道の立ち姿・日垣宮主師
神稲を振る日垣宮主師(京都、豊国神社、2005年9月25日)
左端:筆者、その右前:河野容雄・美剣身体道師範

 私が宮主さまの元を訪れ、神道入門の誓いを立てたのは、それから間もなくのことでした。

 日垣神道は、ある意味で自己確立の道でもあります。
 自己確立とは、自己を確りと立たせること。
 天地を貫いて立つことがどれほど難しいことか、青年の日に眼にした一枚の写真が、今も脳裏をよぎるのであります。

 神仕えする者の座起進退が乱れては祭りが通りませんとの訓えを受け、神修にいそしむ毎日でありますが、姿勢一つで通天の境地を現すことが人間にはできるのであるということを若き日に眼にした以上、その境地に向けての精進は尽きることがありません。

 立ち姿一つでこれほど人を感動させるとは、いやはや恐れ入りました。

 「至誠通天」とは、日本全国の神官たちがとても大事にしている言葉であります。
 至誠(まこと心)無くして神法を行ずるならば、我欲に振り回される行者の末路をたどるほかありません。
 神仕えする者たちは、至誠(まこと心)をこそ最も尊ぶのです。

 至誠は姿勢に現れます。至誠通天とは、姿勢通天でありました。

若者よ、姿勢を正し給え

 内実の豊かさが姿勢に現れるということは、武道、神道、芸道、その他あらゆる道において共通する法則です。

 姿勢が大事なんです。形が大事なんです。
 
 ある剣道史に名高い剣客は、自分の道場へ他流試合に訪れる剣客の履き物を見て、その対応を決したといわれます。履き物の減り具合が左右に偏っている場合は、自ら相手をするに及ばずと門弟に相手をさせ、履き物がまっすぐにそろっている人物は、自ら相手をしたとか。
 履き物の減り具合で姿勢のほどが分かるのです。姿勢によって、剣技修練のほどが推測できるのです。
 
 ずたずたとだらしなく草履を引きずって歩く若者や、腰折り曲げて両脚を大きく広げて座席に座り、己の人品の卑しさをひけらかす若者たちは、論ずるに値しません。
 少なくとも、正しく生きたい、美しく生きたいと願う若者たちは、姿勢を正しなさい。姿勢を正すことから内実が正され、内実がまた姿勢に現れるのです。

 若者よ、姿勢を正し給え!

神司(かみつかさ)が神法を現してくる時、何が大切でございますか。
坐起進退(ざきしんたい)の作法といふものがございます。
坐るといふ作法です。
起つといふ作法です。
前に進む作法でございます。
後ろに退(さが)る作法、
これを坐起進退(ざきしんたい)と言ひます。

この坐起進退が乱れておりますと己自身が確立できません。
その己自身の鶴立がございませんと神法に隙ができるんです。
どんな素晴らしい理論展開をしてもはじまりません。
どれほど霊魂の高い人間でありませうとも、
どれほど素晴らしい言論を逞しくする人間でございませうとも、
この坐起進退に隙ができましたのでは神法成就いたしません。
(日垣宮主『拝神の極意』より)