【篤姫02】篤姫の働きで「徳川の人はむなしく・・」を免れる
大政奉還の年号は・・
徳川幕府の15代将軍、徳川慶喜(よしのぶ)が政権を朝廷に返上した、いわゆる大政奉還ですが、この大政奉還の年号を覚えておられるでしょうか。私は、語呂会わせで覚えています。1867(ひとはむなしく)年ですね。
1867年 徳川のヒトハムナしく亡びけり
以後、王政復古の大号令が発せられ、翌年(1868年)、明治改元がなされます。
徳川はむなしく亡びなかった
ところで、「徳川の人はむなしく亡びけり」と語呂合わせで覚えはしたのですが、徳川家は本当に滅びたのでしょうか?
いいえ、滅びておりません。
朝敵の頭目であった15代将軍・徳川慶喜公は、命を奪われるどころか、後に貴族の最高位である公爵に列せられ、従一位に叙せられ、大正2年に天寿を全うしています。
徳川幕府の将軍は15代で絶えますが、徳川家自体は存続し、徳川宗家16代の徳川家達(いえさと)もまた、公爵に列せられ、従一位に叙せられ、貴族院議長などの公職に就いています。
【写真は、徳川家達(いえさと)。篤姫に養育される。】
以後、今に至るまで、徳川家は連綿と続いています。
徳川の人はむなしく滅びなかったのです。
これは、世界史的にみると、実はまれなことであるのです。
明治元年以後、一連の戊辰(ぼしん)戦争において朝敵とされた徳川が、戦後にこれほどの厚遇を得るのは、まことに日本的特殊現象といえるでしょう。
天璋院篤姫の人生は「捨て石」
天璋院篤姫は「救いの一手」
徳川の人はむなしく亡びなかったのは、天璋院(篤姫)の働きによるところが実に大きいのです。
二百数十年続いた徳川幕府の体制が崩壊しようとする時、徳川家の人々はもちろん、それに連なるどれほど多くの人々が、
動乱のあおりを受けて苦しむことでしょうか。
その時に当たり、天は人を見捨て賜わず、篤姫なる人物を、徳川の大奥に配し、局面を大きく動かし賜うたのです。
日本国の運命を碁盤の上に配してみれば、徳川を始めとする旧体制の人々の運命も、その碁盤の上に配置されます。
新体制、旧体制と申しましても、つまる所は、日本人。
日の本の国人(くにびと)の苦しみ少なかれ、との天の思し召しが現れて、天璋院篤姫を大奥に打ち込むという「救いの一手」となったのです。
天璋院篤姫は「捨て石」
「救いの一手」とは申しましたが、篤姫ご自身にとっては、それはご自分を「捨て石」とすることでありました。
この「捨て石」が大きく働いたのです。
島津の分家に生まれ、将軍の正室「御台所」に登りつめたというものの、夫の徳川家定は心身ともに虚弱であり、夫婦生活もあったのかどうか。
普通の意味で、女の幸せというものとは、遠い世界に身を置かざるをえなかったのです。
ただでさえ多くの人々の想念渦巻く中で、動乱がいっそう人心を惑乱させる中で己を持し、官軍の江戸総攻撃をくい止めて、江戸城の無血開城を実現する陰の力となり、自分が嫁いだ徳川の家を保持し、徳川宗家十六代の家達(いえさと)を養育し、
大奥女中たちの生活の面倒をみる。
それは、本当に「捨て石」の人生でありました。
しかし、それは日本国の「捨て石」でありました。
囲碁でいう「捨て石」とは、相手に取らせることによって、逆にこちらの利益を得るという石のこと。
一見、不幸とみえる篤姫の人生によって、日本国が利益を得たのでありました。