産土百首04 産土の靈(みたま)の懸かる此の身
産土の 靈(みたま)の懸かる 此の身をし 佛の子ぞと 言ふは誰が子ぞ
(うぶすなの みたまのかかる このみをし ほとけのこぞと いふはたがこぞ)
【大意】産土の霊力によって作られたこの身を、佛の子というのは、一体どこの子だい。
人は皆、産土の産子(うぶこ)
この宇宙は、肉体界のみならず、その奥に、幽界、霊界、神界という4つのスペースから成り立っている。
4つのスペースというのは、あくまでも大きく区分してという意味であって、細かく分ければもっと細かくスペースを区分できる。
その大宇宙は、天之御中主(あめのみなかぬし)、神美産霊(かみむすび)、高美産霊(たかみむすび)と申し上げる造化三神から始まり、神々が生み出され、国産みがなされ、ついに人が産み出されました。
その人間創造のプロセスにおいて、多数の創造神界の神々のお働きによって霊魂が形成され、ついにその霊魂が肉体形成という段になって、その霊魂と父と母とを産霊(むすび)つけるのが、産土の神であります。
その意味で、沢山の神々の代表として産土の神が、人間を誕生せしめる神と申し上げることができます。
本田親徳翁が、「産土の靈(みたま)の懸かる此の身をし」と詠まれたのは、そういう意味で受け止めましょう。
人はみな、産土の産子(うぶこ)であるのです。
仏の子とは、いかなる権限があっての言葉か
その日本国に、昔インドに発した仏教が入ってきました。
その後の日本仏教の展開を見ると、それはインド仏教とは異なる「日本」仏教として発酵醸成され、神道とともに日本人の心を培ってきました。その意味を大らかに受け止めれば、「日本」仏教とは、もはや外来の宗教とも言えぬ日本人の心の道と言えるでありましょう。
ただ、物事を精確に考えるという立場に立てば、これほど日本化した仏教であっても、根底はやはり仏教であって日本神道ではないのです。
そもそもの発生源が異なるのですから、致し方ありません。発生源が異なりながらも、これほどまでに日本人の心に同化してきたのは、お見事と申し上げたい。
しかし、どれほど同化が進んでも、原点の違いだけはどうしようもなく残ります。
ですから、日本の象徴である天皇即位の大礼・大嘗祭(だいじょうさい)は、神式でなければかないません。
仏式の大嘗祭はあり得ないのです。
人間の霊魂を形成していくという神業において、多くの神々の働きが加味されるのであり、それを代表して、産土の神がいらっしゃるのですから、人間はみな産土の産子であるということは、人間創造の仕組みからくる真実であります。
そこにホトケの働きは、何ら関係がないのです。
「佛の子ぞと 言ふは誰が子ぞ」と本田翁が詠まれたのを、よく味わってください。
仏教を信仰するのは大いに結構です。
ただし、人間を「佛の子」と言うならば、ではその「佛」さんに尋ねてみてください。
「あなたは、一体、如何なる権限をもって、人間を佛の子であるとおっしゃるのですか」と。
そう問われて返答できる佛さまはいらっしゃらないはずです。人間創造の仕組みに佛さんは関わってはいないのです。
私は、日本仏教というものに相応の敬意を払っております。
「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘が鳴る」と童謡に歌われるように、お寺というものは、神社とともに、日本人の心に練り込まれているのです。
一軒の家に神棚があり仏壇があるというのも、まことに日本人らしくて結構です。
本田親徳翁の産土百首には、他にも仏教に対する和歌がいくつかあり、中にはかなり手厳しい歌もあります。私は、それを可能な限り柔らかく受け止めていきたいと思っております。
しかし、物事を精確に立て分けていくという際には、やはり神道と仏教との違いをきっちりと押さえておかねばならないこともあるのです。
その意味で、人間を「佛の子」というのは、宗教信仰者の信仰表現に過ぎず、真実の人間像を表す言葉とは受け止められません。
「産土の 靈(みたま)の懸かる 此の身をし 佛の子ぞと 言ふは誰が子ぞ」
せめて日本人であれば、この一首の意味を玩味していただきたいものです。