水無月(水有る月)にナの言霊の力を想う
1.水有る月を水無し月という
六月を水無月(みなつき)という。
水無月は梅雨にかかり、一年で水が最も豊富な月である。
それにも関わらず、水無月というのはどういう訳か?
むしろ、水無し月ではなく水有り月というべきではないのか?
この疑問は、日本語のナの言霊の秘密を知れば氷解する。
2.ナの通説
手元の辞典を紐解くと、水無月の「な」は「ない」の意に意識されて「無」の字が当てられるが、本来は「の」の意で、「水の月」の意であると解説されている。(国語大辞典(新装版)小学館)。
「水の月」でもよろしい、とは言いかねる。
これでは水無月が生きてこない。
水無月はやはり「ナ」の言霊の意味を外すわけにはいかない。
日本語の音には、それぞれ意味がある。
日本語の言霊の意味を探る際には、漢字に惑わされてはならない。
漢字ははさておき、通説にも惑わされず、「ナ」という音の意味を探ってみよう。
3.ナの言霊の意味するもの
日本語でナのつく言葉を思いつくままに拾ってみると、
鳴る、成る、生る、為す、名前、・・・・そして、無い
つまり、水無月とは、水の力が鳴り出し、鳴り響く月である。
そして水の力で物事を成らしめ、物事を新たに生みだし、物事を為さしめるのが水無月である。
事実、日本全国の神社で行われる水無月の祓えは、水の力を使っての大祓(おおはらえ)である。(それに対して、師走の大祓は、火の祓えである。)
このナの言霊が、「名前」にも籠められている。
人の名前には、その人の力が鳴(ナ)り出し鳴(ナ)り響き、人生を豊かに成(ナ)らしめるという祈りが籠められている。
水無月とは、正に、水の力を讃えの月ということが出来る。
4.「無い」の真義
では、そのような水無月のナの言霊が、「無い」とどう関わるのか?
そこに、拝神(神霊を礼拝)の極意、あるいは鎮魂の心得にも通ずる秘儀がある。
神前に合掌して深々と一礼し、神気を己の中に迎え入れる。
本当に一礼だけで、神気を迎え入れることができるのであろうか。
本当に神気を迎え入れるためには、それに先だって、己自身の一切を無くしてしまわねばならない。
己の心を消して、虚空心に立ち返らねばならない。
己を虚空体になし変えて、初めて創造の神気を己の中に迎え入れることが出来る。
鎮魂して、己自身の魂の力を振り起こすという際にも、虚空心から魂力(たまぢから)が吹き出すのである。
一切を無くしてしまった所から、新たに創造の力が鳴り出すのである。
ナくすから、ナりだすのである。
「無い」と「鳴る・成る」という一見矛盾する意味が、同じナの言霊に包含されているのは、そういう訳である。
5.水無月とは、水の力が爆発する月
人間の身体は、70%近くが水で出来ている。
また、鉱物や金属にまで、極微量の水が含まれている。
その水の力が爆発したら、どれほどの大事が成し遂げられるだろうか。
水無月に水の力が、先ず「無い」で虚空界に返り、そこから「鳴り」出し「鳴り」響いてゆく。
その水の力を己自身の身体の中から爆発させて、物事を「成し遂げて」行く。
水無月とは、水の力が爆発する月である。
水無月という月の名乗りに秘められた言霊の力は、甚だ深く大きい。
水無月という月の名乗りがあることに感謝申し上げ、日本語の深さに感謝申し上げて、この水無月を実りある月とすべく努力したいと思う。