産土百首05 産土を神とも知らず祭らずて棄て置く村は

本田親徳「産土百首/05」
産土を 神とも知らず 祭らずて 棄て置く村は 獸なるかも
【読み】うぶすなを かみともしらず まつらずて すておくむらは けものなるかも
【大意】産土の神を知らずに祭ることもなく捨て置くような村人は、人とも言えぬ獣のたぐいである。

産土の神を祭るのが人間の基本姿勢

本田親徳翁の産土百首は、まことに味わい深いのでありますが、時に言葉が激越に走ることもあるように私には感ぜられます。

産土の神を知らずに祭らないような村人は、人とは言えぬ獣(けもの)の類いであるというのですから、大変です。

そうすると、私の友人たちの中にも、人生五十年を過ぎて私から産土神の話を聞いて、産土神社を探し、産土参拝を初めたという人が、何人かいる。そういう友人たちは、ついこの間まで獣(けもの)であったことになる。これは愉快だ、彼らに是非とも話して聞かせねばなるまい。あはは。

本田翁が、この和歌でおっしゃりたいことは、よくわかります。言葉は少々きつく響くかも知れませんが、産土の神を祭るということは、人間としての基本姿勢の一つと申し上げてよろしいからです。

人間は、父と母と産土の産霊(むすび)によってこの世に肉体形成して生まれてくるのです。

 子供が生まれるのに、父親と母親のムスビが必要であるとは、誰でも承知しています。しかし、父親と母親がムスビあうだけでは、真実の人間を産み出すことはできません。父親と母親に加えて、産土の神の力がどうしても必要です。
父と母と産土の神のムスビによって、人間が肉体形成して誕生するという仕組みになっているのです。
(親子で学ぶ神道読本(一)父と母と産土の神 昌原容成・著 P. 66)

そういう仕組みになっていますので、父親母親に孝行すると共に、産土の神を尊んで祭るということは、人間として当然の行為、というよりは人の人たる所以の行為と申すべきでしょう。

「産土を 神とも知らず 祭らずて 棄て置く村は 獸なるかも」の一首は、人の人たる所以を詠んだ歌と申せましょう。

産土神域を清浄に保つのは産子の責任

日本全国、どこへ行きましても神社があって、その土地の産土さまが祭られている。それが日本のうるわしい特質でありますが、その神社のすべてが清々として神気を放っている訳ではありません。

中には神前が枯れ葉で覆われ、草が生い茂り、神気が枯れてしまっている神社もあります。これでは、その土地の住人たちが、本田翁から「獸なるかも」と一喝されても仕方がありません。

産土神社の神域を、常に清浄に保ち、清々と神気が香り立つように心掛けるのが、産子(氏子)の勤めであります。土地の住人たちが力を合わせて清掃奉仕などを積み重ねて行かれると、枯れてしまった神気が復活することもあります。

それこそが、日本人の生き方でありましょう。

「獸なるかも」の一喝は、真摯に受け止めたいものです。

【参考】父と母と産土を篤く礼拝することが人生の基本
親子で学ぶ神道読本(一)父と母と産土の神