相撲は国技ではない、日本武道の総体こそ国技

「強いのが横綱」ではなかった

土俵際で観客に万歳三唱を促す横綱に違和感が感じられて仕方がない。
この人は雑誌の対談で、「勝つことが品格」と言い切ってはばからない。
(雑誌「SPA!」1916年12月27日号)
優勝40回とか。強いですね。

でもねえ、昔は、「強いのが横綱」ではなかったのです。
昔の相撲の世界では、一番強いのは大関でした。
だから、大関を英語に直すと、チャンピオンとなる。
横綱はチャンピオンではなかったのです。
横綱を無理に英語に訳すと、スーパーチャンピオン、グランドチャンピオンとでも言うほかない。

江戸時代には、相撲の番付に擬して、いろいろな番付が作られました。
温泉効能番付とか、料理番付とか。

その番付表の最高位は大関であって、横綱は番付表にはありません。
(下図参照。)





強い弱いのショートカット世界で、一番強いのは大関でした。
横綱は、そのショートカット世界を超越したアップダウン世界の奥に鎮座していたのです。

昔はアップダウン構造の奥に鎮座していた横綱は、今やショートカット世界に下りて、「勝つことが品格」だとおっしゃる横綱も出て来た。
まあ、それも一つの考え方でしょうから、否定はしません。
それはそれでよろしい。でもねえ・・・。

それはそれでよろしいのですが、だったら横綱だの品格だのと言わずに、
横綱は相撲プロレスチャンピオンと呼ぶことにすればよい。
日本相撲協会は、日本相撲プロレス協会と改称すればよい。
いや、世界相撲プロレス協会の方が実態に即しているでしょうね。
国技館は、相撲プロレス会館と改称すればよろしい。

「大相撲が国技である」とは、相撲協会が勝手に申し立てているだけであって、今の相撲に国技と言える内実はありません。

今の相撲の世界に、日本精神の清冽さは観て取れないのです。
相撲は、国技ではありません。

やわらかに人かき分けていく

蕪村の弟子、高井几董(きとう)が、当時の力士を詠んだ一句があります。

  やはらかに人わけゆくや勝角力(かちずもう) (高井几董)

勝負を終えた安堵感と、白星を挙げたという充足感、しかし決してそれでガッツポーズをとっていきるようなことはなく、「やはらかに」人をかき分けていくのです。

一時期マスコミを騒がせた横綱が、空港ロビーを歩いてくる姿をテレビで見て驚いたことがあります。
「やはらかに」という姿とは、あまりにかけ離れていたからです。
その横綱の全身から響きだしてくる波動は、とてもとても「やはらかに」という風情ではありませんでした。どう見ても、強さを誇る波動しか感じられなかったのです。

その横綱が問題を起こして師匠と記者会見するのをテレビで見て、またまたびっくり仰天しました。あり得ない・・・。

その横綱は、会見が終わるとさっと立ち上がると、師匠の様子を窺うことなく、右向け右でさっさと出口へ向かいました。後から師匠(日本人)がのこのことついて行く。
武道の世界に身を置いて、師匠と弟子という関係で修行してきた者から見れば、こんなことはあり得ないことです。

本当に師匠であり、弟子であるというならば、会見場から立ち去る時に、弟子がさっと立ち上がると、先ず師匠の様子を窺います。
師匠が立ち上がって出口へ向かわれると、自分の身を引いて、師匠の後からついて行きます。当たり前じゃないの。

ところが、この横綱、会見が終わるとさっと立って、師匠の方は見向きもせずに出口に一目散。後からノコノコとついて行く師匠(日本人)も師匠だ。

本当に些細な些細な1シーンです。
その些細な1シーンに、日本精神の真実が表れているのです。
あるいは、日本精神の不在が表れているのです。

一体、どの面下げて・・・おっとっと、言葉が乱れそうになりましたので、言い直します。

一体、いかなる顔容(かんばせ)ありて、師匠と宣い、弟子と宣い給うや。
いかなる顔容(かんばせ)ありて、横綱と宣い給うや。
いかなる顔容(かんばせ)ありて、国技などとは宣い給うや。

相撲は国技ではありません。

モンゴル出身の横綱だから、こうなったというのは間違いです。
日本相撲協会と相撲部屋全体の問題です。
日本人もモンゴル人も含めて、
今の相撲の世界に日本精神の清冽さは観て取れません。

相撲は国技ではありません!

伝統と格式に則ればよいわけではない

相撲が国技であると言われるようになったのは、それが日本古来の伝統と格式を伝えているという一面があるからでしょう。

宮中行事に、「相撲の節会(すまいのせちえ)」があり、力士は髷を結い、横綱はしめ縄を垂らす。
確かに日本の伝統と格式に則っていますね。

では新興宗教が、伊勢神宮の神官と同じような装束に身を包み、神宮と同じような社を建て、神宮と同じような祝詞を上げたら、それでもってウチの宗教は日本の伝統と格式に則っているのでウチの宗教こそ日本国の国教だと主張したらどう思いますか。

日本相撲教会が、相撲は国技であると勝手に言い立てているのは、その程度の申し立てに過ぎないのです。

相撲が国技であるとは、大いなる勘違いです。
今の相撲の世界に、日本精神の清冽さは観て取れません。

相撲部屋に、日本精神が横溢しているならば、その部屋で暮らす力士達は、毛穴からその空気のような日本精神を吸い込んで、本当の相撲道を表す力士に成るはずです。今の相撲の世界にそれは望む臨むべくもありません。

相撲は国技ではありません。

日本の国技とは日本武道の総体

では真実の意味で、日本の国技と申し上げるべきものは何でしょうか。

私は、日本の武道を総称して、日本の国技と申し上げるべきだと思います。
合気道、柔道、剣道はもちろん、古武道の総体をひっくるめて、国技と申し上げるべきだと思います。

相撲が国技であるという勝手な申し立てが、これほど広まったのは、一つには相撲協会が全国で興業をしてきたからでしょう。
柳生心影流は、全国興業をしませんね。

その柳生心影流、如何にしてうまく人を切るかという修行を済み重ねた末に、柳生石舟斎は、無刀取りを編み出しました。
つまり、切る修行を積み重ねた末に、切らないという技法を編み出したのです。
これも日本人のアップダウン意識の表れですね。

その他、古流の各流派において、剣の道を極めることはどうしても人格を極めることにつながっていったのです。
それが日本人なんです。それが日本人のアップダウン意識なんです。

日本武道の総体をこそ、日本の国技と申し上げるべきでしょう。
今の相撲は、国技のグループには入れません。

将来、相撲の世界に日本精神が横溢して、日本精神を体現する親方力士が現れれて、相撲部屋で生活する者が毛穴から日本精神を吸収するような状態になったとしたら、その時には、相撲も国技グループの一員に入ることができるかも知れません。
しかし、今の親方衆(日本人)を見ても、その可能性は甚だ乏しい。

今の相撲は、国技ではありません。
日本武道の総体をこそ、日本の国技と申し上げるべきであります。