(14) 日本国籍取得のこと

法律上も日本人となる

 平成21年10月、私は日本国籍を取得して、昌原(あけはら)の新戸籍を作りました。

 平成19年9月に、昌原(あけはら)と改姓して、以後神前においては「昌原容成」と名乗っておりました。→ 昌原(あけはら)改姓

 この度、法律上も、日本人・昌原容成となったわけです。

昌原黄氏に生まれて

 私は、昭和24年(1949年)5月に大阪で、在日韓国人の家の三男として生まれました。
 父は、昌原(チャンウォン)黄氏で、母は金氏でした。

 黄氏は、中国に多い姓ですが、韓国にもかなりの数の黄一族がおります。

 昌原黄氏の半島における始祖は、黄石奇と称し、今からおよそ700年ほど前、高麗の頃に、元の公主のお供をして高麗朝へやってきて、そのまま出仕することになりました。
 今の釜山の西に、昌原(チャンウォン)という土地があり、石奇公はこの昌原(チャンウォン)の地に封ぜられたのです。

 そこから、この一族を、昌原(チャンウォン)黄氏と呼ぶようになりました。石奇公を初代として、私で23代になります。

 両親が通称を併用しておりましたので、私も高校までは通称を本名と併用しておりましたが、高校時代に先祖に対する想いが深くなり、卒業後は一貫して「黄容成」を名乗っておりました。

 「黄」を韓国語では「ホァン」と発音します。
 「黄」は大地の色でもあり、「ホァーン」というやわらかな音は、「容成」(ヨンソン)と共にとても気にいっておりました。

 こうして、黄氏の因縁の流れの中で、我が身にふりかかるさまざまな出来事に対して一所懸命の努力をして参りました。

 それが「一隅を照らす」という教えや、自分の置かれた境遇で努力することが大事であるとの人生教訓にも合致する、自分の生き方であると信じてのことでした。

霊源のあり方こそ、さらに大事

 ところが、日垣宮主師に出会い、日垣神道を修するうちに、「霊魂の発生源(霊源)」のことに意識が及び、次第に己自身の霊源のあり方を発揮することこそ、人間の生き方の根本に置くべきであると思うようになりました。

 その感覚から、私のこれまでの人生を眺めるならば、「一隅を照らす」という人生訓によって黄氏の因縁の流れの中で奮闘努力を続けるということ自体も、それに固執するならば一つのとらわれに過ぎないとすら思えるようになったのです。

 そういうことから、平成19年9月に、黄氏の名乗りを返上して、昌原(あけはら)を名乗るようになったのです。

 『ありがとう・たった一語で日本が分かる』を出版の際には、黄容成と名乗り、その改題版『ありがとう日本アップダウン構造』出版の際には、ペンネーム「昌原(まさはら)容成」と名乗ったのですが、黄氏の名乗りを返上するに当たり、「昌原(あけはら}と名乗るがよかろう」との宮主師のお言葉により、「昌原(あけはら)」と決しました。

  ア 初発の光
  ケ 食する
  ハ 広がる
  ラ 循環

 こうして、自分自身が何者であるのかということの根本にある自分自身の名乗りを、「昌原(あけはら)容成」として、神祭りも行って参りました。

ヤマト国ぶりをあらわして

 2年前の昌原改姓にあたっては、さまざまな手順が必要でした。
 昌原という姓を新たに造る訳ですので、この世の動きだけでそれが成就する訳ではありません。
 昌原創姓の祭りをいくつも重ねる必要がありました。
 この世のあらわれとして、阿鼻叫喚の修羅道を歩むかの体験もいくつもありました。

 こうして、この度の日本国籍取得となり、法律上も日本人・昌原容成となったわけです。これまで日本人の妻として別戸籍であった家内も、昌原の戸籍にはいりました。

 黄氏祖霊に対する感謝の思いと共に、これからは昌原(あけはら)の氏をこの日本国に根付かせて、ヤマト国ぶりをあらわして生きたいと願っております。

 昌原(あけはら)の氏(うじ)の柱を 秋津島 底津岩根に 太敷きたてむ (容成)