【篤姫07】篤姫は将軍・徳川家定を毒殺したのか?

篤姫が将軍・徳川家定を毒殺したという説がある

天璋院篤姫は桃の花のようなお人 篤姫が、夫である13代将軍・徳川家定を毒殺したという説があります。 2007年12月のテレビ番組で、篤姫による将軍毒殺説をあれこれと論じていましたので、ごらんになった方もいらっしゃるでしょう。 元警視庁捜査一課長の田宮さんも、篤姫による将軍毒殺説を支持していらっしゃいましたね。

篤姫による将軍毒殺説の論拠3つ

篤姫による家定毒殺説の論拠は、次の3点です。
1.最近掘り起こされた家定の歯形が異常にもろく崩れている。
  これは、ヒ素による毒殺の一兆候と考えられる。

2.家定の担当医が書き残した家定死去の状態が、
今の医学的見地からみて毒死の可能性が高い。

3.篤姫には薩摩から毎月高額の資金が支給されていた。
御台所として何不自由のない暮らしを保証されているにも関わらず
薩摩藩からの高額の支給を受けていたのは、
将軍家転覆のための工作資金として使ったのであろう。

篤姫による将軍毒殺説は拵(こしら)えもの


上記論拠の1と2は、科学的な知見でありますので、説得力がありますね。

ただし、論拠3は、その科学的知見とは別個の篤姫毒殺首謀説に立っての推論でしかありません。

このテレビ番組をごらんになった人の中には、1と2が3を裏付けるものとうっかり真に受けて、篤姫による将軍毒殺説に納得しかねません。

この点について私の個人的見解を述べておきます。

篤姫による将軍毒殺説の見当違いを正す


私の個人的見解によれば、篤姫による将軍毒殺説は見当違いであると思います。
篤姫による毒殺説には、人間理解が欠如していると思うのです。

篤姫による将軍毒殺説の論拠は、根も葉もない訳ではありません。
途中までは、みるべき所もあるのです。
しかし、決定的に抜けているのが、「人間理解」ということだと思います。
その「人間理解」が抜けているが故に、とんでもない結論を創り上げてしまったといえます。

論拠1は科学的所見でありますので、私もなるほど毒殺の可能性が高いと納得いたします。
論拠2も医学的観点から是認されるものであり、1と併せて、家定が毒殺された可能性は相当に高いと言わざるを得ません。

ところが、論拠3がいけませんね。

薩摩藩七十七万石は、加賀百万石につぐ大大名であり、その薩摩藩主の養女から将軍家へ輿入れした篤姫に対して、薩摩藩が充分な「御化粧料」を差し上げるのは当然のことです。
それは薩摩の面目にも関わる事柄です。

殺人の動機を糾明するには「人間理解」が必要


論拠1と論拠2の科学的医学的知見も、「人間理解」を間違うと、論拠3の誤解をもたらし、ついには篤姫を大毒婦としてしまうのです。

元捜査一課長の田宮さんなら重々承知していらっしゃるはずですが、殺人容疑者の容疑を裏付ける状況証拠がかなりそろったとしても、容疑者の動機が解明できなければ、殺人の立件はおぼつかないのです。

つまり、人間というものは機械ではありませんで、殺人を行うには行うだけの動機が必ずあるのです。動機を見極めることが出来るかどうかが、操作の鍵の一つになるのは当然ですね。

その動機を見極めるために「人間理解」が必要なわけです。
殺人という究極の人間行為を究明するためには、「人間理解」が絶対に必要なのです。

生き抜くための大義としての婦道


篤姫が養父の島津成彬(なりあきら)から、慶喜(後の15代将軍)の将軍擁立に向けて努力して欲しいと頼まれたのは事実のようです。
養父の言に従って、篤姫はその努力をしたことでしょう。

しかし、幕末の日本大動乱の時に、動乱の中枢にいて大局の推移を見守る立場にいた篤姫にとって、一番に我が身に言い聞かせていただろうことは、婦道の全うであったろうと思います。

己の中に確とした心構えがなければ、動乱の流れの中で己を見失って流されてしまいますでしょう。
己が生ききる為にも、己自身の中に、生き方の核心をしっかりと据える必要があったのです。
「鉄石の心腸」を己の腹中に練り上げて婦道を全うするという、己の魂が心底から納得出来る生き方を貫ぬかなけりゃ、生きていけなかったといえるのです。


篤姫は徳川の女として生きる覚悟をしていた


つまり、徳川の家に嫁にはいった以上、自分は徳川の人間として生き、徳川の子々孫々に至る繁栄を願って生きる。養父・斉彬の言も、その流れにそって、慶喜を将軍に擁立することが徳川家の為であると思えるから、その限りにおいて、聞き入れることができるのでしょう。

篤姫は、徳川に骨を埋めるつもりで、徳川に嫁入りしたのです。
その覚悟は、篤姫の生涯を貫いていたと考えられます。

事実、官軍との戦いに徳川軍が連敗して、徳川家の存続も危ぶまれるという状況になった際に、実家の島津家から天璋院(篤姫)を引き取りたいと申し出があったのですが、天璋院(篤姫)は、自分は徳川の人間であるとして、それをきっぱりと断っています。

また、徳川宗家16代の家達(いえさと)を養育して、徳川宗家が今に至るまで保持されることに力を尽くしました。

そういう篤姫を、まるで徳川に悪意を持って入り込んだ女忍者のようにみなして将軍毒殺の犯人扱いすることに「人間理解」が欠けていると申し上げているのです。

ついでに申しますと、天璋院(篤姫)は、慶喜を擁立する立場に立たされたとはいえ、実は慶喜を好ましく思っていなかったようです。
鳥羽伏見の戦いで、兵を大阪城においたまま、大将である慶喜が江戸へ逃亡するということがありましたが、篤姫はそういう慶喜に将としての器を見て取れなかったのでしょう。この点は、私も篤姫に同感です。

将軍毒殺説の真相を推理する


論拠1と2は家定毒殺を示している

それでは、篤姫を大毒婦とする説の論拠としてあげられていた1と2については、どう考えればよいでしょうか。

論拠1と2による限り、将軍家定は毒殺されたとみるのが妥当でしょう。
しかし、篤姫がそれに手を出したとは思えません。
ではいったい、誰が、家定を毒殺したのでしょうか。

真相は、歴史の彼方へ消え去っていますので、今となっては推理するほかありません。
家定毒殺の真相を推理する

私の推理の結論を端的に申しますと、篤姫の周りにいた女性が、毒殺の手を下したのではないでしょうか。

先に述べたように、篤姫自身は、徳川の女として生きると決意して、その決意を練り固めることによって己の上にふりかかる激変を乗り切るほなかったのですが、一緒に薩摩から付いてきた女性たちは、篤姫とは異なる感覚を持っていたと考えられます。

つまり、篤姫は徳川の女として生きる決意をしたのですが、
お供の女性たちは、徳川に嫁入りした訳ではなく、篤姫に仕えるとはいうものの、薩摩の女を捨てきれなかったのではないでしょうか。

だとすれば、病弱の将軍家定を廃して慶喜を擁立するという勢力の手に乗って、家定毒殺を敢行したとしても不思議はありません。

(余談ですが、13代家定死去後、14代は家茂(いえもち)が継ぎ、慶喜はその後15代将軍に就くことになります。)

篤姫の敵は内外に


こう考えると、篤姫の敵、というのは少しはばかりがありますが、大まかな意味で敵と言う言葉を使うとすると、敵は内外にいたということになりますね。
薩摩から伴ってきたお付きの女性たちとの心のずれも、随分あったことでしょう。

薩摩の国から将軍家に輿入れして、大奥を束ねる御台所となったとはいえ、何かとしきたりを振り回す大奥の旧勢力も何かとうるさい存在であったでしょう。

そして、自分を支えてくれるはずのお付きの女性たちも、自分を守ってはくれるのですが、心の奥深いところで篤姫の覚悟とは少しずれが生じていたことは、充分にありえることでしょう。

まあ、両方とも、敵というのは、やはり言葉が強すぎますが、心の奥の奥まで篤姫を理解して篤姫と行動を共にするという女性は、案外少なかったのかもしれません。

「鉄石の心腸を練り上げ」て婦道を全うする


そういう状況であるから、なおさら、篤姫は自分自身をしっかりと持する必要があったと申し上げることが出来るでしょう。

「鉄石の心腸を練り上げ」て婦道を全うすることが篤姫の生きる道であったと、私は思うのであります。