【篤姫05】御殿女中こや/主命を奉じて火中に飛び込む

前の記事「菊本の自害はナゼ?」において、主・篤姫の為に自害する菊本のサムライ心について述べましたが、現代に生きる私たちには、それでも菊本の心がピンと響かないかもしれません。
そこで御殿女中「こや」のエピソードを紹介して、菊本の自害の理解を深めていただきましょう。
御殿女中こや、火の中に飛び込む弘化元年(1844年)と申しますと、篤姫輿入れ(1856年)の12年前のこと。
大奥につとめる女中の中に、御外科・桂川甫賢(ほけん)の娘「こや」という中臈(ちゅうろう)がいました。
「こや」は家斉将軍の御台所・広大院に仕えておりまして、天璋院篤姫とは縁もゆかりもないのですが、当時の人々の気風を知るよすがにして戴き、菊本の自害についても理解を深めて戴きたいと思い、「こや」のことを記すことにします。これは実話でございます。

主命の重さ

江戸城本丸炎上

弘化元年五月十日午前四時ごろ、江戸城中に出火して本丸が炎上するということがありました。
火事と喧嘩は江戸の華、などと申しますが、いったん火事となれば、それは命懸けで避難したものです。

その日は朝から雨が降っていましたが、12代将軍家慶(いえよし)は傘も差さず草履も履かずに立ち退き、広大院はかごが間に合わずに御末の女中に背負われて避難したのです。

こや、猛火に飛び込む

この避難の途中で、広大院から「こや」に対して、花町という年寄りが老衰の上に病気して立ち退きもままならないはずだから、早々に助け出すべしとの仰(おお)せがありました。

こやは畏まって長局(ながつぼね)へ駆け戻りましたが、火の手は早くも花町の部屋を包んでいました。
部屋の中には案の定、花町が倒れて身動きできないでいる。飛び込めば当然、花町もろともにこやも焼死するという状況でした。

こういう状況で、現代に生きる私たちであれば、あきらめて引き返すでしょう。
むやみに人命を失うことを避けるために、引き返すのは当然の処置といえるでしょう。

しかし、こやは、江戸時代に生きる女であったのです。
主の仰せは、命に代えても承るべき、絶対の言葉でありました。

そこでこやは、逃げ出してくる女中を引き留めて、

「御意を承ってお年寄りの所へ参ります。燭台を握った屍がありましたら、それが私だと思し召すよう方々へお伝え下さい」

と言い残して、猛火の中へ飛び込んだのです。

鎮火後、燭台を堅く握った屍が発見され、父・桂川甫賢に引き渡されました。

こやは、一命をなげうっても主命を奉じるという自分の生き方を貫き通したのです。

武士道精神は男たちだけのものではない

士農工商を貫く武士道精神

最近、新渡戸稲造博士の『武士道』が復刻され多くの人に読まれています。
私の過去の文章から『武士道』について述べた部分を下に引用します。

 武士道精神を貴んだのは武士だけではありませんでした。
 士農工商という身分制度があった時代にも、武士道精神は農民、工人、商人にも感化を及ぼしていました。

 新渡戸稲造が『武士道』で述べているように、百姓たちはいろりを囲んで、義経を助ける弁慶の忠義物語りや、曾我兄弟の忍苦に耐える物語に興じたり、番頭や丁稚たちが信長や秀吉の物語りを楽しんでいたのです。

 また、赤穂浪士の討ち入り後には、江戸市中で町人たちの敵討ちがいくつもあったとか。

 崩れかかっているとはいえ、武士道精神は今も日本人の心の奥底で生きていると思います。
(武士道(新渡戸稲造)からアップダウン構造へから引用)

当時の人々は、士農工商の別なく、なにがしかこういうメンタリティーを持って生きていたのです。

篤姫と大奥の女性たちの心意気

篤姫も大奥の女性たちも、全身の毛穴からこの時代の精神を吸い込んで生きたいました。

篤姫を養育し、晴れの舞台へ送り出す直前に自害した菊本もまた、その心中にサムライ心を養っていたのであります。

また、大奥の女性たちの中にも、そういう気風が、時代精神として横溢していたことでありましょう。
とかく、どろどろとした女の想念の渦巻く場とのみ大奥をみると、大事な一点をはずしかねないことになりますね。
(どろどろとした女の想念・・・そりゃあ、もちろんでございますがね。)

中臈こやの一件から、当時の大奥につとめる女たちの心意気を感じとって戴きたいと思います。
天璋院篤姫は、そういう時代に生きて、ご自分の役目をひたすらに全うされたのでございます。

菊本の自害も、こういう背景から考えていただくと納得していただけることでしょう。