セーヌ河畔の紅梅白梅を標本木として
今朝、早起きして、セーヌの岸辺を散歩した。
節分から一週間が経った。セーヌ河畔の紅梅白梅の咲き具合を確かめるためである。
今朝は、三分から四分咲きといった所であろうか。
あっ、この「セーヌ川」ね、えーっと、我が家から歩いて150歩ほどの所に大和川の支流である「平野川」が流れているのですが、この川を地元のボクたちは「セーヌ川」と読んで愛しているわけです。呵々(かか)。
「セーヌ河畔の紅梅白梅」という記事タイトルに惹(ひ)かれて、この記事に訪れたお方には、申し訳無いのですが、でも、ぼくたちの地元の川にどういう愛称を奉ってもよいわけでしょう、呵々(かか)。
ついでに、「呵々(かか)」とは、笑いを表現する漢語です。「呵々大笑」などと云うこともあります。要するに若い女性たちがメールの末尾に付け加える、笑いマークの漢語版ですね。呵々(あはは)。
さて、問題の「セーヌ河畔の紅梅白梅」ですが、我が家の玄関から150歩で本名は「平野川」の岸辺に達し、そこから更に20歩の所に紅梅白梅が並んでいるのです。毎年この頃に紅白の梅花と共に甘い香りを発して春の訪れを知らせてくれるのです。
日本人は桜を最も尊ぶようですが、香りは断然、梅の方がかぐわしい。
この紅梅白梅を、私は自分の標本木としているのです。
開花状況などを知るための指標として扱われている植物の個体。
特に、気象台が桜の開花状況を観測するための指標として定めている桜の木を指すことが多い。
京都の桜の標本木は、「平野神社」の境内にある桜の木であり、一度桜の頃に拝見しましたが、標本木というだけあって堂々たる咲きっぷりでした。
ここ平野郷を流れる「平野川」の岸辺には、昌原個人の標本木たる紅梅白梅があって、私が春の訪れを感覚する縁(よすが)としているのです。
先日、清少納言『枕草子』の言霊解釈なる記事を数本アップしたのですが、こういう古典をじっくりと読み込んでいくと、日本人の感性が季節の移り変わりを鋭敏に感覚することによって培われてきたものであるということがよく分かります。
その意味で、読者の皆さんも、ご自分の標本木を定められたらいかがでしょうか。
このサイトを訪れるお方であれば、日本人としての生き方を深めたいという心はお持ちでしょう。日本語アップダウン構造を学んでいただき、「父と母と産土の神」について学んでいただくのは、もちろん結構ですが、同時に日本民族の感性をも深く培っていただきたいと願うのであります。
体力・知力とともに、感性力もまた人間力の重要な一要素であります。
→ 産土と人間力(3) 人間力の要素(感性力)
自然深く観察することが、感性力を深めることにつながります。
桜が咲いたら花見で浮かれるのも結構ですが、同時に桜の樹をよくよく観察なさることですね。
そのために、ご自分の標本木を定めて、花の季節だけではなく、一年を通じてよく注意して観察するのです。子供さんをお持ちの方は、子供さんと一緒に、つぼみの頃からつぼみを見せて、それは少しずつ大きくなってやがて花開き、散っていくまでを見せるとよいのです。それはとても素晴らしい自然教育となり、自然教育が子供の情緒を育てるのです。
平野川の岸辺には、紅梅白梅だけではなく、昌原個人の桜の標本木もあります。それは、このあたりではめずらしい、オオシマザクラであります。桜のころに、また紹介いたしましょう。
是非とも標本木を定めて、自然観察を深められますように。
【参考】昌原筆録【29】山桜を愛でる(ソメイヨシノ全盛の陰で)
産土と人間力(3) 人間力の要素(感性力)