【坂本龍馬01】龍馬の銅像を見て感動のあまり雄叫び挙げる
坂本龍馬像を見て二度雄叫びを挙げる
初めて坂本龍馬の銅像を見たとき、私は思わずオーーッと喚声を挙げた。
しかも二度、腹の底から雄叫び挙げてしまった。
その後二十数年、還暦を過ぎた今も、その時の雄叫びが私の中で轟轟(ごうごう)と鳴り響いている。
私が初めて坂本龍馬像を実際に眼にしたのは二十数年前、当時の私は四十を越えていたがまだ独身の「青年」であった。
数人の友と連れだって高知県桂浜を訪れ、小高い丘に建つという龍馬先生の銅像を拝見しようとなり、小高い丘を登っていった。
すぐに丘を登り詰め、眺望が開けるとともに、数十メートル先に坂本龍馬像が姿を現した。
私はそれを見て、思わずオーーッと声を挙げたのだ。
そのあまりのでかさに驚いて、辺りをはばからず、昌原青年は声を挙げてしまったのである。
私はそれまでに、桂浜の丘から太平洋をながめるという坂本龍馬像の写真を、何度も眼にしていた。
その写真のイメージとしては、普通の銅像、つまりせいぜい等身大の銅像であろうと勝手に思い込んでいた。
しかし、現実の龍馬像は、私の思い込みを打ち砕いて、あまりにもでかかった。
オーーッと喚声を挙げながら、私は龍馬像の元へ走り寄った。歩いたのではない、走ったのだ。それも叫びながら、龍馬像の元へ走り寄ったのだ。
龍馬像の高さは5.3メートル、その下の台座が8.2メートル、台座を含めた総高は13.5メートルにもなる。ビルのワンフロア3メートルといわれるので、竜馬象はだいたいビル四階ぐらいの高さがある。
龍馬像の真下に立って龍馬先生をしばらく見上げていた私は、やがてゆっくりと視線を下ろし、台座の銘板に眼が止まると、再びオーーッと腹の底から喚声を挙げてしまった。(二度目の喚声)
そこには建設者として「高知懸青年」の五文字だけが刻まれていた。
高知懸青年!
私はその五文字を見て一瞬のうちに全てを悟ったのだ。
この巨大なる坂本龍馬像が、どのようにして建てられたのか、一瞬にして悟ったのである。
それは功成り名を遂げた年配の人士が、その財を傾けて建てたのではない。高知県青年たちが、乏しい財をかき集めて、郷里の先人を讃仰(さんぎょう)する銅像を自分たちの力で作り上げたのである。
よくある記念建造物には、多額の寄付をした人々の名前が彫りつけてあったりするのだが、どれほどの費用と人的エネルギーを要したか計り知れない巨大なる龍馬象の台座には、建設者として「高知懸青年」の五文字があるのみであった。
「高知懸青年」の五文字ですべての事情を悟った昌原青年が、腹の底から雄叫び挙げるのは当然ではないか。
カンセイ(大声)の三種類
カンセイ(大声)を挙げるという。そのカンセイには、三種類ある。
・喚声:大きな叫び声(例:喚声を挙げるデモ隊)
・歓声:喜びのあまりに挙げる大きな声(例:優勝を喜ぶ阪神ファンの歓声)
・喊声:出撃の時に挙げる大声=ときの声(例:天地を揺るがす喊声)
私が坂本龍馬像を見て最初に挙げたカンセイは、驚きの喚声であった。
驚きの喚声を上げながら、龍馬像に走り寄りつつ、それは喜びの歓声となっていった。
台座の五文字を見て挙げた二度目のカンセイは、喚声と歓声と喊声が入り交じったものであった。
驚きと喜びとともに、身震いするような青年の志が心中に爆発して、喊声(ときの声)を挙げたのである。
「高知懸青年」の五文字に、昌原青年の心は、激しく揺り動かされたのであった。
坂本龍馬という人間霊魂の巨大さを想う
龍馬像を見てオーーッと二度の雄叫びを挙げた私であるが、その数年前にあるお方の写真を見て、オーーッと声を挙げて叫んでしまったことがあった。
日垣宮主師が下駄を履いてスッと立っておられる、その立ち姿に一切の力みがなく天地直立体としてただ立っておられるお姿(写真)を拝見して、驚嘆の声を挙げてしまったのである。
それから数年後、龍馬像に接して私はまたもや声を挙げてしまった。
還暦を過ぎた今、これまでの人生を振り返って、人の姿や銅像などに接して感嘆の声を挙げたのは、この二度きりである。
日垣宮主師も坂本龍馬先生も、よほど霊魂の響きが強大であると見える。
であるが故に、龍馬先生を慕う高知懸の青年たちが、当時交通機関の未発達な時代に、学業もさておき県下全村をまわって募金活動に奔走したのである。それは坂本龍馬先生の霊魂の強大なる響きを青年達が心魂に受けてのことであった。
坂本龍馬先生は、死んではいないのだ、生きているのだ。
その霊魂の巨大なる響きは、今も生きて日本全国の青年たちの心を奮い立たせているのである。
ちなみに、下記の数字が何を意味するかお分かりであろうか。、
・坂本龍馬 31歳
・吉田松陰 29歳
・中岡慎太郎 29歳
・高杉晋作 27歳
これは維新の志士たちが、不幸にも維新の実現を目にすることなく、あるいは暗殺され、あるいは刑場の露と消えた時の満年齢である。あれほど高知懸青年の心を奮い立たせた坂本龍馬は、31歳で没している。松下村塾で維新の志士たちを育てたと言われる吉田松陰は、たかだか29歳。松蔭先生、29歳ですよ、29歳。
つまり、維新回転の大事業というのは、30前後の青年たちの志によって実現されたのである。
高知懸青年・・・何故私がこの五文字でこれほどに心を振るわせて雄叫びあげることになったのか、分かっていただけたであろうか。
不幸にして早逝した志士たちではあるが、その志は歴史を学ぶ構成の若者たちの心の中で生き続けるのである。
維新の青年志士たちを想うとき、私は同時に特攻隊の青年たちを想い、また坂本龍馬像の建立に奔走した高知県青年たちを想うのである。
龍馬像建立にいたる青年たちの苦労については、この記事の続編でくわしく述べることにしたい。
ああ、また何やらわけもなく、雄叫び挙げたい気分になってきた。
▼日垣宮主師の立ち姿(写真)を見てオーーッと声を挙げた話
昌原筆録(28) 武道神道の立ち姿(植芝盛平翁と日垣宮主師)