(26) 一専多能(合気道史外伝)
「一専多能」の境地
「一専多能」という言葉がある。一つ専門の道を極めれば、多くの他の才能にも通じるという意味である。
「専門バカ」という言葉もある。一つの専門については詳しいが、他の道については皆目知らないという意味である。
たとえ「専門家」といわれる身となっても、未だその道を極めていない境地においては、「専門バカ」にとどまると言われても仕方がない。その境地を通り抜けて、真実、一芸を極めたならば、それは必ず他の多くの才能にも通じる境地に達し、「一専多能」を表し得る。
この小文の主人公は、武道において「一専多能」を表した人物である。彼が直接、合気道の歴史に関わるわけではないが、間接的には、まことに面白い関わり方をするので、「合気道史外伝」とサブタイトルをつけた。
小説「姿三四郎」のモデル、西郷四郎
「姿三四郎」には実在のモデルがいた。
西郷四郎(右の写真)である。
その得意技「山嵐」は、「姿三四郎」と共に少年たちのあこがれであった。
西郷家に養子に入る
西郷四郎は、明治維新の前年1866年(慶応2年)の生まれであり、西郷家の養子であった。会津藩家老の西郷頼母(たのも)が、四郎の柔術の技量を認めて、養子としたのである。
会津藩では、新羅三郎義光(源義光)を流祖とする大東流柔術を、代々の藩主を始として限られた格を有する者のみに、御留技(おとめわざ)として伝えていた。
御留技の稽古にあたっては、襖を閉めきって他に漏らさぬように配慮されたと云う。家老職の西郷家がその御留技を伝えるという役目を負っていた。そこで四郎の技量が買われて西郷家の養子となったのである。
大東流柔術か講道館柔道か
会津藩御留技・大東流柔術を伝えるという役目を負って西郷家に養子に入った四郎であったが、東京遊学中に嘉納治五郎に出会い、講道館柔道を学ぶことになる。たちまち、その技量をもって頭角を現し講道館四天王の一人とうたわれた。
嘉納治五郎が長期の海外視察に出かける際に、後事を託されたのは若干23歳の師範代、西郷四郎であった。
西郷四郎没後の碑には、嘉納治五郎の筆によって「ソノ得意ノ技ニ於テハ幾万ノ門下イマダ右ニ出デタルモノナシ」と刻まれている。
かように柔道に秀で、嘉納治五郎の信任厚い西郷四郎であったが、その人生は苦渋に満ちたものとならざるを得なかった。
嘉納治五郎の信任が厚ければ厚いほど、西郷家の養子たる身との軋轢を生じるのである。つまり、大東流合気柔術を取るか、講道館柔道を取るかという軋轢である。
現代の若者であれば、何の迷いもなく両方やると言うかもしれないが、時は江戸の流れに色濃く染まる明治初期のこと、流派の壁が、今からは想像もできないほどに強かったのであろう。
こちらを立てれば、あちらが立たず、あちらを立てれば、こちらが立たない。
結局、悩みに悩んだ西郷四郎は、大東流を捨て、講道館を捨て、両方を捨てて九州に逐電する。明治の人間というのは、こういうものであったのだ。
西郷四郎に見る「一専多能」
大東流合気柔術の伝承を託すに足るとして西郷頼母に養子に迎えられ、「ソノ得意ノ技ニ於テハ幾万ノ門下イマダ右ニ出デタルモノナシ」と嘉納治五郎に言わしめた西郷四郎が、両方を捨てて九州に逐電して何をしたのかというと、弓の師範であった。また、長崎游泳協会の創設に関わり、同協会の監督として日本泳法の指導にも携わった。
柔術は達者だが、弓は苦手であるとか、泳法はからきしダメであるというのは「専門バカ」の領分である。真実、柔術の道に精進してあるレベルを超えたならば、その「一専」は必ず「多能」に通じていく。
弓を取れば弓の師範として、水に入れば、日本泳法の師範として十分に力を発揮できるのである。「武芸十八般」というのは、その消息を表す言葉である。
吉川英治の『宮本武蔵』には、武蔵が吉野太夫と交流する場面がある。武芸の道と芸能の道とは、全く異なるようであるが、ともに「一専」に達すると「多能」に通じて話が通じるようになる。もちろん虚構のつくり話ではあるが、その虚構に一片の真実が込められている。
若者が一芸に志を立てるならば、必ず「一専」に達して「多能」に通じることを目指して精進すべきであろう。
西郷四郎は、まことに「一専多能」をよく具現化した人物であった。
合気道史外伝
さて、サブタイトルの「合気道史外伝」に触れねばなるまい。
会津藩御留技を次代に受け継ぐ養子をなくした西郷頼母は、その柔術を武田惣角(そうかく)に伝えた。武田惣角は、さらにそれを植芝盛平に伝える。
植芝盛平は、大東流合気柔術や古流の武術を極め、そこに精神的な境涯をも加味して、戦後に「合気道」として宣布した。
歴史に「もし仮に」はないのだが、「もし仮に」を想像してみるのは愉快である。もし仮に、西郷四郎が嘉納治五郎と出会わずに、大東流柔術を伝承していたならば、その後の合気道の歴史はどのように変わったであろうかと。西郷四郎と植芝盛平との出会いはあったのであろうかと。
「もし仮に」を想像すると興味津津と湧いてとどまらない。
こういう歴史の一断面を覗(のぞ)くのは、まことに興味深いことであるが、さらに得難いのはそこから教訓を見出すことである。
一芸を磨いて、精進し、精進し、精進し続けるのだ。
精進の果てに、ある一点に達する時、その一芸は多能へと通ずるであろう。
若者よ、一専多能を目指し給え!