【神道07】産土神の霊験記(2) 害意ある霊群鎮定

1.埋蔵金に関わる霊群

1-1. 電話の向こうから強烈な波動が

 「もしもし、昌原さん、相談したいことがあるのですが・・・」
 「はい、どうぞお聞かせ下さい。」

 関東の友人S氏から電話を通して相談を受け始めると、その波動を受けて、横にいた家内がひっくり返ってしまった。
 これはキツイ!

 電話の向こうから、強烈な波動がこちらへ伝わってくる。
 それは、こちらに害意を及ぼそうとする強烈なエネルギーであった。

1-2. 害意を抱く霊群

 「産土神の霊験記(1)」では、産土参拝によって子供達の霊魂を産土神の導きに乗せるという体験記を著した。

 それまで神祀りの経験などなかったごく普通の家庭の主婦が、21日間の産土参拝によって、その家の中でさまよっている霊魂をして、行くべき所へ導くことが出来たのである。

 それは、害意を持たない子供達の霊魂であったから可能であったのであり、強烈な害意をもって悪想念を発する霊魂の場合には、素人にはそう簡単には行かないのでないか、と思われるかも知れない。

 そこで、産土神の霊験記(2)として、害意をもってこの世の人間をあの世に引きずり込もうとする霊群を、同じく産土参拝と太祝詞(ふとのりと)で鎮定したという実話を記すことにする。

 S氏と電話で話すだけで、横にいた家内がひっくり返ってしまったという、その話とは、まことに強烈な話であった。

1-3. 非業の死を遂げた武士団

 S氏がある霊能者から聞かされた話として、東北のある山に、昔、軍資金を埋めた武士の一団があり、埋めた後で口封じのために殺害されたという。

 それを聞いた法華経の行者がその軍資金を掘り当てようと画策し、S氏がその話しを聞くに及んで、S氏ににわかに異変が生じたのである。

 霊的な作用については、鈍感といってよいS氏であるが、その件を思うと背筋がぞくぞくとして、車を運転しても今まで味わったことのない危ういことに出くわす。

 これは絶対におかしいと実感して、私に電話で相談してこられたのである。
 非業の死を遂げた武士団は当然行くべき所を知らず迷っている。
 そこへ彼らと縁のあるS氏が現れた。

 S氏の名誉の為に言って置くが、S氏は武士団の殺害に荷担したわけではない。
 細い一筋の糸にも似た因縁があったに過ぎない。

 しかし、怨念を抱いて数百年を経るその霊群が、正常なる感覚を有するわけはない。
 その細い因縁の糸をたどって、S氏をあちらの世界へ引きずり込もうとした。
 S氏は殺されかけたのである。

1-4. 埋蔵金にはスダマ(素魂)や霊群がとりついている

 そういう霊群と関わりある金銀を掘り出そうなどとは、まったく無茶をする。
 こういう埋蔵の金銀などには、必ずそれにとりついているスダマ(素魂)の一群があり、因縁を込めた霊群がある。

 仮に掘り当てたとしても、当然、猛烈なしっぺ返しを食らって、命を落としかねない。
 今回の霊群は、それほどキツイ想念を発していた。

2.自己解決の道を示す

 S氏はある教団の幹部待遇を受けているお方であり、その教団内では特殊な印や祈りを授かるなど、ほとんど宗教のセミプロといってよいお方である。

 しかし、その教団の祈りや印、その他の方法では、どうにもならないと実感しての相談であった。
 こういう相談を受けて私が心がけることは、出来る限り相談者自身の努力によって問題を解決して戴くということである。
 世の中の宗教団体がよくやるように、
  
さあ、私の所へいらっしゃい、 私が問題を解決してあげましょう
 というのでは、人間を堕落させる事にしかならない。
 頼らせてはいけない。すがらせてはいけない。

 人間が己の神性に目覚めて、この世に「人間神界」を作り上げるという新時代にあっては、己に降り掛かることは己の神性によって自己解決していくというのが一番望ましい。

 このような問題も、自己解決を図って戴くということを原則として、その自己解決の方法を教えて差し上げるというのが、私の基本方針である。

 これを称して、「太陽の新時代」と申し上げる。

 そこで「産土霊験記(1)」と同様に、S氏にも21日間の産土参拝を勧め、その為の祝詞を書いて差し上げた。

 そして今回は、産土参拝の祝詞に続いて、太祝詞(ふとのりと)を三回繰り返して奏上するように進言した。

 たまたまS氏とその知人たちと共に、房総にて満月祭をお仕えする計画があり、電話のあったその日を第一日として、満月祭の日がちょうど21日目にあたる。

 S氏には、産土神に体当たりする積もりで参拝を続けて頂き、21日目の満月祭で締めのみたま祭りをしましょうと伝えた。

3.産土参拝と太祝詞

3-1. 21日間の産土参拝

 S氏は早速その日から産土参拝を始めた。
 産土神に祈願して、21日間の参拝を致しますと申し上げると、祈願が届いたならば、その人が背負うべきいわば「借金」を21日間に凝縮して背負わせてくださる。

 凝縮して背負わせてくださるということは、つまり、21日間の参拝期間中に、いろいろと事が起こる可能性があるということである。

 参拝を続けがたいような事も起こりがちである。 それを乗り越えて、必ず21日間やり通すという心がけが必要とな
る。

 S氏の場合も、21日の期間中に遠くの親戚の葬儀があり、何とかやり繰りして日帰りで帰って参拝をやり通すという事もあった。
 産土参拝の主旨は、○○山で落命したみたまたちをしてそれぞれの産土神界の導きに乗せ給い、21日目に房総満月祭にて最後のみたま祭りをお仕えさせて下さいということである。

4.産土神に祈願は届くか?

 S氏には祝詞を書いて差し上げたが、読者の皆さんが同様の祈願をなさる場合には、現代語で申し上げるとよい。
 読者の皆さんが現代語で申し上げた祝詞が、果たして産土神に届くのであろうかと疑問をお持ちかも知れない。

 大丈夫、あなたの真心を日本語に乗せて申し上げれば産土神に届きます・・・・・・・・・
 と申し上げたい所だが、必ずしもそうはいかないのも真実である。

 本当の所、届く届かないは、現代語か古語かには関わりなく、その人のあり方によりけりと言わざるを得ない。

 では、これまで祝詞を唱えたことがない、産土神社に参拝したこともない、そういう人たちが、にわかに産土神社を探し当てて参拝し、たどたどしい祝詞を唱えて、産土神に祈願したとして、その祈願を産土神界に届かせる方法はないものであろうか。

 そういう場合に、活用できるのが、太祝詞(ふとのりと)である。

5.太祝詞の力

5-1. 太祝詞活用の落とし穴

 祝詞祈願の後に、太祝詞を唱えると、先に唱えた祝詞祈願が正しく神界の波に乗せられる。
•先ず、産土の神様、○○○○についてよろしくお願い致します
と祈願する。

•次に、太祝詞を唱える。
 太祝詞の力が働いて、先の祈願が神界の流れに載せられる。
 ところが、ここに大きな落とし穴がある。
 不用心に太祝詞の力を誤解すると、その落とし穴にはまりこむ。

 あたかも、太祝詞を教祖とする太祝詞「宗教」に陥ってしまう。
 つまり、自分とは別の世界に太祝詞様がいらっしゃって、その有り難い太祝詞様が自分に力を与えてくださると誤解する。
 これが太祝詞「宗教」という誤解である。

 これでは下手をすると「さあ、私の所へいらっしゃい、私が問題を解決してあげましょう」という宗教と何ら変わるところはない。

 今、太陽の新時代に、実は宗教なるものは必要がない。
 むしろ宗教は、新しい時代の新しい人間の生き方を阻害することが甚だ多いというべきである。
 では、過去の宗教とは一線を画する太祝詞の絶大なる力とはどういうものか。

5-2. 太祝詞の力とは己自身を確立する力

 太祝詞には力がある。
 しかし、その力のを誤解してはならない。

 太祝詞の力とは、己自身を新たに生み出して、己自身を確立する力
である。

 太祝詞を奏上することによって増強される力とは、外部の力ではない。己自身の力である。
 己の中にある神性が、太祝詞によって輝き出すのである。

 つまり、太祝詞とは、人間内面の「人間神力」発動の祝詞と申し上げることが出来る。
 だからこそ、祝詞祈願の後に太祝詞を唱えると、己自身の内部の「人間神力」が響きだして、己自身の祈願を神界にまで通じさせる力を発揮することとなる。

 これは決して、遙か天上の雲間から太祝詞様が外から働いて己の祈願を引き上げて下さるのではない。
 己自身で己自身の祈願を神界にまで通達させる、その己自身の「人間神力」を増強するために奏上するのが太祝詞である。
 すべては己自身のあり方である。

 己自身のあり方をさておいて、太祝詞様であろうが、宗教様であろうが、よそからの力で自分を引き上げて戴くという考えは、一切捨てて戴きたい。

 この一点をくれぐれも誤解しないようにして戴きたい。

6.生きる姿勢の基本とは

 S氏もある宗教教団の幹部であるというものの、私の勧めで祝詞を唱え始めたのは二三年前のこと。
 大体、自分の産土神社がどこであるかもご存じなかった。私に産土の話を聞いて初めて産土神社を探したという経緯ある。

 それで宗教をやっていたというのだから、S氏には失礼ながら、宗教以前の、そもそもの生きる姿勢が出来ていなかったと言わざるを得ない。生きる姿勢の出来ていない宗教者が甚だ多い。

 父と母と産土を礼拝申し上げる心を確立したのち、人生諸般に立ち向かうべきである。
 産土をさておいて、宗教に走るというのは、本末転倒である。

 本当のところ、「太陽の新時代」にあっては、宗教というものの存立理由はもはやないと言わざるを得ない。
 これまでの人類は、延々たる時代を通じて、月神の支配下におかれて来た。薄暗い月明かりの下で、生き方を模索する人類に対して、月神の恵みとして、宗教が真如の光を投げかけてきた。

 過去のあらゆる宗教は、月神の恵みの光であった。
 時至り、今や月神に代わって、日神が地球経綸・人類経綸の首座にお着き遊ばした。

 日の光の下では、真如の光(宗教)に頼らずとも、これまで見通せなかったものがはっきりと見通すことが出来る。
 つまり、宗教は役目を終えた。

 太陽の新時代に宗教は無用と申し上げる所以(ゆえん)である。
 但し、これまでの人類史において宗教が果たして来た役割も充分に評価出来る。
 今後の宗教というものは、伝統文化維持と言う観点から保持していくのがよろしかろうと思う。

 父の力を礼拝申し上げるのは、宗教ではない。
 母の力を礼拝申し上げるのは、宗教ではない。
 産土の力を礼拝申し上げるのも、同様に、宗教ではない。

 父と母と産土と、三つの力のムスビによって肉体形成して生まれてきた人間が、その肉体形成の根元力を礼拝申し上げ、そこから生きる力を戴くというのは、宗教ではないのである。

 父母産土を礼拝申し上げるということは、人間の生き方の根本と申し上げるべきであろう。

7.産土神は死後の世界をも導く

 人間の生き方のみならず、人間の死に方をも、産土神は指導してくださる。
 つまり、産土神は、人間が死後にどの世界へ行くべきかを導いてくださる。

 そこで、数百年の怨念に凝り固まってこの世の人間をあの世へ引きずり込もうとする霊群も、それぞれの産土神によって、それぞれの行くべき道筋を教えて戴けるのである。

 S氏は、そういう祈願を二十一日続けた末、最終日に私たちと共に満月祭をお仕えした。
 所は房総半島の南端、神祀りにふさわしい宮柱太敷き立てたる館に、潮風が香る。
 同志八名が居住まいを正して座る。煌々たる満月が齋座(いわくら)を照らす中、祝詞がしずやかに響く。

 S氏二十一日の産土参拝で霊群に対する祀りはほぼ完了していたといってよい。しかし、あらためて、満願の日の満月の神光を拝受して、霊群のみたま祭りをお仕えしたという次第である。

 これにて、一件落着。
 霊群はすべて産土神の神恵の中に置かれ、行くべき所を得た。
 S氏の生活の異変はもちろん、すっかり解消した。

8.産土神力と人間神力

 これをもし、産土の力によらず、行力等で「浄霊」するとしたら、のたうち回って七転八倒の苦しみをするであろう。
 一人二人の霊魂を相手にしてもその始末。

 怨念に凝り固まった十数体の霊群が相手では、場合によっては落命すらしかねない。
 そのような強烈な霊群を、神祀りは素人といってよいS氏が、己の真心によって産土参拝を続け、産土の神力と太祝詞の絶大なる助けを得て、それも拙い祝詞の上げ方で(失礼!)、ともかくも霊群の鎮定に成功した。

 S氏の祝詞の声が参拝を経てがらっと変わって重厚味を増したことはもちろんである。
 少々頼りなげな祝詞であっても、真心がそれを補い、太祝詞がそれを補ってくれる。
 太祝詞が己を新たに生み出して、己の中から「人間神力」が発動する。
 産土の神力、太祝詞によって発動する「人間神力」、件(くだん)の如しである。
【参考】 【9】『神伝・太祝詞と解文』(日垣宮主・著