路上で合氣道の稽古(心身のこだわりを取る)

私の合氣道の稽古は路上で
ボクの稽古場は家の前の道路
五月にはいってさわやかな風が吹きめぐる。いい季節だ。
真冬の寒稽古も味わいがあるが、新緑の季節の稽古は、まことにのびやかである。

合気道の稽古といっても、道場に通うことなく、我が家の前の公道で、一人で杖・木刀を振るのみである。
自動車が片側通行できるほどの狭い道路であるので、通行人や通行者に気を配りながらの稽古である。
思えば昔から、私は一人稽古をよくしてきたものだ。

時には、合氣の友と一緒に汗を流したいものだと思うのだが、なかなかに実現しない。
せめて文章で交流をと想い、合氣の友・末廣業太郎君の思い出を交えて「昌原筆録【25】師匠に学ぶということ(末廣業太郎君と)」という記事を書いた。
早速、末廣君からメールが届いた。彼らしい一文だ。差し障りはなかろうと思うので、一部を下に引用する。

この歳まで病気ひとつせずに来られたことに、あらためて両親に感謝です。
昨年の夏には、学生全員で東京本部の道主の稽古会に参加をしてきました。
以来、他の道場にも通い始め、世間の広さを思い知らされています。
この頃やっと合気道の入り口にたどり着いたような気がしてきました。
色々な人や技に出会い、合気道の奥の深さを今更ながら痛感しています。
(末廣業太郎)

学生時代に勇名を馳せて伝説の先輩と言い伝えられている彼が、名門・関学合気道部の監督として、還暦過ぎまで精進を重ねて、「この頃やっと合気道の入り口にたどり着いたような気がしてきました」と言う。まことに武道・芸道というものは奥深いものだ。

武道と神道はこだわりを解く道

私の一人稽古などは、武道修行と言えるほどのものではないが、肉体のサビ落としにはなるであろう。

武道稽古をすると全身の血流がさらさらと滞りなくながれていく。体のこだわりが溶けていく。
終わって洗身沐浴して、冷水を浴びる。全身が一瞬引き締まって、血流が息を吹き返す感がする。
(⇒ 筆録【11】二月極寒の楽しみは冷水浴に限る)

衣服を正して、祝詞を奏上する。心のこだわりがさらさらと溶けていく。

近隣の国々の有様を見るにつけ、日本人ほどこだわりのない民族はなかろうと思う。
日本国に、武道があり、神道があることを、まことに有難く思う。
肉体のこだわりを溶かし、精神のこだわりを溶かし、さらさらと流れていく。

登校の児童たちに目を配りながら

通行の車や登校の児童たちに目を配りながらの稽古である。公道での稽古であるので、通行車の排気ガスも有難く吸い込まねばなるまい。子ども達が何かと問いかけてくるのも、仕方がない。

昨日は、小学2年生の女の子がふくれ面をしてやってきた。

どうしたのかと尋ねると、○○ちゃんと喧嘩した、と答える。仲直りしなさいといっても、いやだと首を振る。

相手が嘘をついたからだとか。まあまあ、そうこだわらずに謝ってきたら許してあげなさい、といっておいた。
しばらくして、嘘をついたという女の子が現れた。謝って仲直りしなさい、とこれにも一言かけておいた。

翌日、女の子たちがやってきた。仲直りしたの、と尋ねると。うんと頷く。やれやれ一段落だ。
子どもたちは、こだわりが少なくってよい。

路上稽古は、近所の子どもたちの面倒までみなけりゃならない。
公道を占拠しての稽古であるので、それも仕方あるまい。というよりも、季節の風物詩を愛でるような味わいがあるというものだ。

末廣業太郎君の修行ぶりと比べると、まことにのんびりしたものだが、是はこれで味わいがあろうというものだ。
「故障は動きながら直す」というのも、大きな流れの中でこだわりを解消していくということであろう。
(⇒ サイト改造と合気道の訓え(故障は動きながら直す)
人生のこだわりを、どこまで溶かしてさらさらと流していけるであろうか。