(19) 虎の尾を履む覚悟せよ(結婚を控える二人に)

 数年前、東海の友人白井抱石君から、近々結婚する若い二人の運命を占って、二人の人生のはなむけとなる言葉を戴きたいと依頼があった。若い頃に紫微斗数や数霊学などを学んだことがあり、随分と占いに入れ込んだ一時期もあった。今は、その学びもすっかり忘れてしまい、時々に味わうのは易経の言葉のみである。
 人生の占いというよりは、人生の覚悟を、易経から採り出して、若い二人に贈ったのが、次の文章である。この筆録に載せて、諸兄姉の参考に供したい。
 (平成22年8月6日)

A君よB嬢よ、虎の尾を履む覚悟せよ!

凶と出ても進むべき時がある

 今の世の中に占いというものが大流行している。吉と出れば喜び勇んでその道を歩み、凶と出れば何としても避けたいと願う人関心が幅を利かせている。しかし、そこには太古純朴の民の占いに対する感覚はまったく見られない。浮かれ心であるいは喜びあるいは悲しむなどは、神通の占いを冒涜すること甚だしい。

 人生諸般の道筋を進むべきかを易神に問うて凶と出ることがある。凶と出たので、それを回避すべきかというと、必ずしもそうとは言えない。
 真実は、「凶である、しかし敢然として進むべし」という場合もあるのが易経の訓えである。

易「天沢履(てんたくり)」

 黒澤明監督の映画に『虎の尾を履む男たち』という名画がある。奥州へ落ちのびる義経を守って弁慶たちが苦労を重ねるというストーリーである。
 もし弁慶が逃避行を占って凶と出たならば、凶であるから止めようと思うであろうか。

 易の一卦に「天沢履(てんたくり)」という卦(か)がある。履(り)とは、履(ふ)む(踏む)こと、履み行う(履行)ことである。
 何を履むのか? 虎の尾を履むのである。

 天沢履の卦辞(かじ)に「虎の尾を履(ふ)む」の一句があり、『虎の尾を履む男たち』という題名はここに由来する。
 危険は元より承知の上、たとえ虎の尾を履むことになろうとも、何としても主の義経を奥州へ送り届けようぞ、という心意気を持った男たちを称して『虎の尾を履む男たち』と表現したのである。

敢然と己の運命に立ち向かう

 易経には、「虎の尾を履む」に続いて、「人を唾(くら)わず。亨(とお)る」とある。敢然として己の運命に立ち向かい、履むべきであるならば、虎の尾といえども一大覚悟を以って履む、履み行う。そうするならば、虎も「人を唾(くら)わず」己の人生道も「亨(とお)る」のである。

 弁慶たちは、最大の難関、安宅の関で、勧進帳を空読みし、関守の眼を欺く為に主の義経を打ち据えるなどの艱難を乗り越えて、とにかくも義経と共に奥州へ辿り着くことができた。
 一大覚悟を持って難関に立ち向かったが故に、亨(とお)ることができたのである。

 凶である、いやだ、避けたい、逃げ回りたい、と思うならば、その軟弱な精神こそが凶運を引き寄せて、運命の虎は人を唾(くら)うに違いない。
 凶である、しかし履み行わねばならない、ならば、敢然と虎の尾も履む。履まれた虎が怒って振り返るとしても、「あら、踏んじゃった、ごめんなさい」とばかりに涼しげに微笑み返すほどの心事であれば、運命の虎も拍子抜けして、「人を唾(くら)わず」となる。

処世の一大秘訣

 つまり、敢然とその凶運に立ち向かって人生を開こうとする覚悟こそが、天沢履の心である。
 この覚悟なくしていたずらに人生の難関から逃げようとし、避けようとするならば、尾を履まれた虎は、その軟弱な精神に引き寄せられて人を唾(くら)うのである。

 この覚悟こそ、処世の一大秘訣である。
 この覚悟こそ、結婚生活を亨(とお)らせる一大秘訣である。
 この覚悟によって、人生の恵みを豊かに戴き奉り、霊魂の進化向上を果たすことができると知るべきである。

 この覚悟が貴君らの心底に確固として打ち据えられた時、運命の虎は貴君らに微笑み返すことであろう。

 A君よ、B嬢よ、虎の尾を履む覚悟せよ!